レピュブリックは様々な権力からの解放者の役割を担う 信教の自由よりもレピュブリックの誓いを優先する

樋口洋一からの引用『加藤周一と丸山真男』より

「イスラム・スカーフ事件」について言えば、イスラムの宗教シンボルと目されるスカーフの着用を公立学校で禁止する措置は、アメリカや日本の常識から言えば、「フランス政府は信教の自由を抑圧している」となるでしょう。信教の自由の抑圧に他ならない措置と見られるあの措置も、フランス型レピュブリックの論理からしますと、公共空間での宗教シンボルの規制を通して、つまり政教分離を公共空間で貫くことを通して、宗教の支配から個人のアイデンティティを保護する、そのことによって個人の自立と自律を確保する公共社会のあり方を確保しようとする、という意味なのです。

したがってこれは、宗教集団にすれば、自由の制限だけれども、個人を基準にすれば「自由の制限」ではなくて、逆に「自由を促進」するための措置だと説明される。
日本やアメリカの常識には反するけれども、レピュブリックから言えばそうでないほうがおかしいとなるのです。

レピュブリックというのは、決して王様や皇帝がいないというだけではありません。それに加えて様々な権力からの、個人の自由を確保するために公権力としての国家が積極的な枠割を引き受ける、そのことを内容にしています。お金による支配、宗教による支配、エスニックによる支配、民族の支配、個人の選択を許さない集団単位のアイデンティティの押し付け。こういうものからの解放者の役割を国家が担う。それがレピュブリックです。このレピュブリックの翻訳は単に共和国では困るが、適当な訳語がない。