マリア・カラスについての悲しい話

マリア・カラスについての悲しい話を見かけたので採録

不可解な死

1977年9月16日、オペラの女王マリア・カラスはパリの自宅で突然亡くなった。家にいたのは遺体を発見したメイドだけ。死因は心臓麻痺と報道されたものの、あまりにも多くの謎が残り、毒殺など陰謀論まで噂されて20世紀最高の歌い手マリア。遺言により火葬され、彼女の骨は海に撒かれた。

遊び人の父、何も知らないお嬢様の母

マリアのギリシャ人の父ゲオルグ・カロゲロープロスは元々農家だった一族に生まれた陸軍将校だった。ゲオルグはアテネ大学で薬学を学んでいたものの、気が弱く流されがちな性格だったせいか、中産階級の出だったこともあり職業として軍人になってしまう。彼の不幸は容姿が美しかったこと。言い寄る女性は絶えず普段からどこかで助けられてしまうためか、思考回路も行動も決断も軽薄で、自立心の低い人間になってしまっていた。そんな流されやすい彼を結婚までもっていくことに成功したのは、上流階級の子女エヴァンゲリア・ディミトリアス。彼女も軍人家系だったが、経済的に恵まれ、何より本人曰く「国王の主治医だった」名門一家の娘ということから大変気位が高く、野心は殊更に強い少女だった。ところが女性に自活能力を育てない保守的な良家の子女らしく、高級な主婦になる以外の目標をもつことはなく、夫探しをする以外に野心を満たすことができなかった。そんな16歳の少女が、誰よりも自分を輝く主婦にさせてくれる相手として見込んだのが、11歳年上のゲオルグだったのだ。まずは母を説得し、そして父も説得したどり着いた17歳と28歳(30歳説もある)の結婚。しかし、まだ年端のいかない世間知らずのお嬢様は、その後すぐに自分の判断力の未熟さに気づくことになる。

父の裏切りと母の妊娠と絶望

ゲオルグは女性に対する肉体関係以上の愛情を習得できないまま育った人間だった。結婚してすると故郷のペロポネソスに戻り薬局を開業。田舎には他に薬局はなく、何もせずとも経済的には安定し、長女イアキンシー(ジャッキー)も誕生する。しかし、経済的余裕はゲオルグを放蕩に導く。本来流されやすい性格である彼は至る処で女性と交際するだけでなく、頻繁な商売女性との遊びはあっという間に街の噂になるほどだった。夫のこの行動は輝かしい主婦になるはずだった妻エヴァンゲリアにとって、この上ない屈辱であったことは間違いない。16歳のときに抱いていた夢と信頼が彼女から消え去った。

幼い兄の死

夫婦の仲を決定的なものにしたのは長男ヴァシリーの存在だった。結婚3年目にして待望の跡継ぎが生まれ、ゲオルグの興味も家庭に戻った。しかし、その幸せは3年で終わりを告げる。ヴァシリーが髄膜炎で亡くなったのだ。「薬を売っているくせに自分の息子さえ救えなかった無能な夫」「農家出身のくせに立派な男のふりをして私をだました夫」。20歳にしてエヴァンゲリアは憤懣と怒りに燃え精神は崩壊しかけていた。

そこでこの状況を打破しようと、軽薄な父ゲオルグは思いつく。

「アメリカへ行こう」

当時NYには多くのギリシャ人が移住していた。そこの知り合いの伝手で薬局を開業すればきっとうまくいくと考えたのだ。娘を連れ太陽が降り注ぎ始める春のペロポネソスを離れ、夫婦は薄暗いNYに旅立った。名をゲオルグからジョージに変え、発音しにくい姓はカラスと名乗って。

マリアを産んで最初の言葉は「そんな子見たくもないわ」

ところがジョージはアメリカで開業する大変さを軽く見積もっていた。国の許可証を得るのに5年もかかり、結局その間、昼はしがない薬局で雇われ仕事、夜はギリシャ語教師として働くことに。そのくせ浪費癖のあるジョージは母国で貯めた貯金をすぐに使い果たすという有様。そんな状況で初夏にエヴァンゲリアは3人目の子どもを妊娠していることに気付く。それは彼女をさらに苛立たせたが、前向きに考えることにした。きっとこの子は亡くなったヴァシリーの生まれ変わりだと。

わずか3歳で命を終わらせたあの可哀そうな長男がまた私の手元に帰ってきてくれた。1923年12月2日、そう信じて母が産んだ子は女の子だった。絶望した彼女は看護師が笑顔で胸元にもってきたわが子に一瞥もせずこう言い放った。

「あっちへやって。見たくもないわ」

“姉のおまけ”だった天才少女

こうして誰にも望まれずに生まれ出た天才オペラ歌手マリア・カラスを、母がようやく目の端に入れたのは3日を経たのちのことだった。名前すらなかなか決めてもらえず、出生届はかなり経ってから提出されたため、マリアの誕生日は形式上の日付であって正確なものではない。両親が彼女に幼児洗礼を受けさせたのはようやく3歳になってからのこと。それくらい両親はマリアの成長に対し無関心で怠惰だった。

哀れなことに6歳上の長女ジャッキーとマリアは同じ姉妹でありながら、まるで別の階級にいるかのようだった。父のDNAなのかジャッキーは容姿に恵まれ、母は花嫁教育と音楽教育にぎりぎりまで金を注ぎ込んだ。専門の教師をつけ、身なりを整えさせ、将来は裕福な男性に嫁ぐような優雅な声楽家にさせようとしたのだ。しかし、がっちりとしてニキビ面で肌も汚く、あか抜けない妹には1ドルも無駄に使いたくないとばかり教育はおざなりで、家のピアノに1日数時間も座ることを強制しながら、マリアは姉のレッスンについて行って傍で見て学ぶしかできなかった。実は彼女の容姿は内分泌腺の機能障害を抱えていたためだったのだが、無関心な両親がそれに気づくことはなかった。

ところがマリアは天才だった。何事も習得が早く、やっている姿を見るだけで覚えてしまうため、姉が課題を引き終えたピアノに近づいて教えてもいないのに姉より上手に弾いてしまうこともあった。難解な曲も極度の近眼だった彼女は読まずにレコードで聴いてすぐ覚えた。のちに多くの歌唱法をどうやって「習った」のかと訊かれた際にこう答えている。「飼っていた鳥からよ」。

「無駄な妹」の初レッスン

でも、いやだからこそ天才少女マリアには教師が必要だった。幸運なことに金を出さない両親の代わりに、近所の声楽教師が無料レッスンを申し出てくれた。このことで彼女の声帯はトレーニングを受け、みるみるうちに非凡な才能を開花させていく。学校でも人気者となり、声楽家の卵としての評判は、無関心な両親の耳にも届くようにもなる。

父は娘たちが歌を歌うことに良い顔はしなかった。経済的な負担もあるが、それ以上にエヴァンゲリアが娘たちを歌手にして儲けようとしていることに気付いていたからだ。

しかし甲斐性なしの夫に妻が傾ける耳はない。思いがけない「無駄な子ども」の才能に目をつけた母は、もうその頃には自分の才能のなさに限界を感じ同世代の子たちとつるむようになっていた長女を花嫁要員と見限り、マリアを素人オーディションやラジオ局に連れまわし、人前で歌わせた。稼ぎ頭にするために。そんな中でも姉ではなく自分に向いた初めての親の視線に、マリアは喜びを感じていたという。こうして、「いらない子」は自分の社会的価値と引き換えに愛情を得ることを学んだのだった。

両親の“離婚”。ギリシャへ

ようやく開いた薬局を1929年の大恐慌のあおりを受けジョージが潰したときから、エヴァンゲリアの我慢の限界はとうに超えていた。そうして1937年、戦争の最中、故国ギリシャへ帰ることを決めたのだ。宗教のため離婚することはできなかったが、その状態で夫を残し故郷に帰ることは実質的な離婚を意味していた。まず前年に19歳になっていた長女ジャッキーを先に帰らせると、マリアを連れて米国を発った。NYという歌手に無限のチャンスが広がっている生まれ故郷を離れるこの決断は非常にエゴイスティックなものだったと言っていい。

家の女中となった妹

故郷のアテネに戻った母は、13歳のマリアを16歳と偽ってアテネの旧国立音楽学校に入学させる。16歳未満に入学資格はなかったのだが、背が高くふくよかで、外国で生まれたマリアの年齢を詐称させるのは容易だった。
 
ところが天才にとって旧国立音楽学校の教育は退屈で、ほぼ熱心に学ぶことはなかった。この頃から、ずば抜けた才能ゆえに「高慢だ」と叩かれ続ける彼女の人生は始まった。この評判のせいで、最初の恩師となる名歌手エルビラ・デ・イダルゴがアテネ音楽院に推薦したときも多くの教師が難色を示すことになった。それでも非凡な声と驚くべき記憶力を見出し、イダルゴが彼女の教育を買って出たところ、マリアは誰よりも早くレッスン上に行き、誰よりも最後まで残ってスポンジのように吸収していった。

勉強にそれほど熱心に取り組んだのは、やりがいを感じていたからでもあるが、実際は家に帰りたくなかったというのも大きな動機だった。

家計を支える能力がまるでなかった母は、男性に頼ったりするだけでなく、美しい長女ジャッキーを金持ちの男と交際するよう急き立て、交際相手から資金援助を得たりして食いつないでいた。長女は男性を捕まえるため毎日着飾り、外で社交に励む代わりに一家の家事を次女マリアに引き受けさせていた。当然、母にも貶されている自分の見た目などに構う余裕はない。カラスが後年語りたがらなかったこの時期の扱いを伝記作家レンツォ・アッレーグリはこう表現している。「まるで女中だった」と。

母に貶され、父には守られず。一家の大黒柱となるべく歌手の卵として熱心に勉学に勤しみ、家では母と姉の小間使いとして家事を担う。マリア・カラスはまるで灰かむりの少女、シンデレラだった。

母が強いた“売春”~NYへ

母は13歳のマリアにもっと恐ろしいことを強いていた可能性もある。時代はナチスとイタリアがギリシャに進行しアテネが占領下となっていたとき。「夏には食べるものがトマトとキャベツしかなかった。それをもらいに行っては農家に頭を下げたものです」。マリアは家事を担うものとして食料を必死でかき集める日々を送っていたのだが、戦火が激しくなるとそれも難しくなり今度は占領軍に譲ってもらうしかなくなった。食料を得るため若い女性たちが兵士たちと交際することが増え始め、マリアもそのひとりになった。交際といえば響きはいいが半ば売春行為。それは誰もがはっきりとは語っていないが、母がそれをマリアにやらせた可能性があるのだ。

この時期の話になるとマリアは必ず激高した。そして1939年からマリアを教育していたアテネ音楽院の師イダルゴがこの件について「あの時期彼女が泣いているのをよく見ました……マリアが18歳のとき、私が救ってやらねばと思いました。あそこで救っていなければ彼女は歌手になっていなかった」と語り、マリアと交際していたイタリア兵が「他の少女たちと“同じように”付き合った」と証言していたことが物語っている。そうして戦争が終結した1945年、イダルゴのおかげでキャリアを積めたアテネを、国立劇場を解雇されたことをきかっけにすぐ離れ、父のいる生まれ故郷NYへ戻ったのだった。

そしてこの後、マリア・カラスは家族の毒によってもっと蝕まれることになる……。

職場のランチを毎日母に持って帰る日々

ドイツとイタリアが去ったアテネで内戦が勃発。そこに入り込んできたイギリス軍の司令部で働き、マリア・カラスは母のために毎日食料と生活費を持ち帰る生活が続いた。交通費を節約するため早起きして徒歩通勤。昼になれば支給されたランチを母のために包んで持ち帰るため家と職場を再び往復する日々。姉ジャッキーは家を去り、十代の少女はひとりで自分の保護者を養っていた。母に寄生される毎日。それを終わらせるべくギリシャを離れ、生まれ故郷NYに戻ったマリア・カラスだったが、そこで待っていたのは試練の連続だった。

母を食べさせるために働く

彼女の旅は借金から始まった。というのも1945年、当時21歳のマリアは戦時中の稼ぎをすべて母との生活費に充てていたため貯金がまるでなかった。アメリカに戻ろうにも資金がない。しかしアテネの歌劇場にもはや仕事はなく、母は自分にたかってくる上、世間からは「占領軍相手に歌っていた女」と白い目で見られていた彼女はどうしても出ていきたかった。父に連絡を取っても返事は返ってこない。そこで当時、帰国を望む海外在住の市民に資金の貸し付けを行っていたアメリカの制度を活用することにしたのだった。

こうして無事NYにたどり着き、幸い父にも出会えたが、アメリカの音楽会は彼女に冷たかった。アテネで自分を褒めてくれた指揮者に会いに行こうと、同郷の男性歌手に仲介を依頼してみた。以前自分に言い寄ってきたことがあるので、助けてはくれるだろうと踏んでいた。しかし、居留守を使われ、ようやく電話を取ったかと思えば本人に確認を取る前から「たぶん君では無理だと思う」と言ってきた。セクハラを拒否した仕返しだった。性的な申し出の仕返しは怖い。たとえこのまま自分で指揮者にたどり着いたとしても結局は頓挫するだろう……。戦時中に味わった屈辱の経験からマリアには容易に推測ができた。頼みの綱を失い職探しは難航。ようやく1年後にメトロポリタンのオーディションまでたどりついたが結局成功はしなかった。彼女の声は革新的すぎて下手すると平凡以下に聞こえてしまったからだ。でもそれ以上に彼女の外見に因るところが大きい。

自殺も考えるほど追い詰められる

母エヴァンゲリアは代謝障害の治療と称し大量の脂肪や、毎日卵黄と砂糖を混ぜたものを飲ませたりしていた。思春期からマリアは始終体調が悪く、食欲がなく、一日をそれで終わらせることも多かったため、不健康に太っていて、肌や髪もボロボロになっていたのだ。

家族に外見を貶されていた彼女は呪いをかけられたかのように本来もっている美しさには無関心で、自信がなかった。実際メトロポリタンに「マダム・バタフライ」の蝶々夫人役をオファーされても、太っている自分では務まらないと断ってしまっている。他人にも認められず、仕事も得られず、容姿へのコンプレックスも抱え、八方塞がりになったマリアは追い詰められてしまう。

「あのとき、わかったんです。なぜ人が自殺を考えるのか」

マリアが信じたペテン師

そこに近づいてきたのがオペラの世界で悪名高いエディ・バガロジーだ。弱っていたマリアに下心をむき出しに近寄ってきたNYの弁護士は、妻がソプラノ歌手だったこともあり、素人興行師のようなことをしていた。マリアはようやく理解者が現れたと、仲良くしたが、大した目利きでもない彼は、無名のマリアを言葉巧みに騙し、ひどいマネージャー契約を結ばせた。この契約書は10年間出演料の1割を支払うという約束で、その代わりにバガロジーが自腹でマネージングするというもの(実際は何もせず、むしろ「同行費」と称して妻がマリアの海外公演に付いて旅行する費用までマリアに持たせていた)。バガロジーは、この契約書を7年後スターとなった彼女の前に突き出し、30万ドル(現在の価値で約1億1000万円)を請求する大スキャンダルを巻き起こす。

新しいマネージャーと結婚

バガロジー以外にも大スターを搾取しようとした人間は他にもたくさん現れた。その最大の例が夫だ。

1947年6月に公演のため訪れたヴェローナでジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニと知り合う。マリアより23歳も年上のイタリア人の成金は、最初はイタリア男のステレオタイプから外れることなく甘い言葉で近づき、肉体関係を迫った。金には糸目を付けなかった彼は、みすぼらしい衣装を買い替えてくれたり、豪華な寝所を用意してくれたりと、マリアにとって安心できる生活を与えてくれた。初めて「愛のようなもの」を感じ、マリアは50も過ぎた肥満の彼に愛の手紙を何通も送っている。夫婦になりたいとマリアは望んだが、メネギーニは他の女性と同じく彼女を最初から捨てるつもりだった。宗教は違うし、実の母とは不仲で、どこの馬の骨かもわからないアメリカの歌手。結婚するつもりなどさらさらない。身体だけの関係のつもりだった。

ところが1949年1月に伝説となったフェニーチェ劇場での公演で、マリアは世界を驚かせる。「ワルキューレ」のブリュンヒルデを務め、そのわずか3日後全く異なる「清教徒」のエルヴィーラ役を成功させ、またすぐ「ワルキューレ」に戻るという離れ業を披露した。1週間足らずで歌唱方法も演技の質も異なる役をマスターしたマリア。幼少の頃に培った記憶力が役に立ったのだった。この女は金になる。マリアではなくマリアの稼ぐ金を愛したジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニは、52歳にして29歳のマリア・カラスと結婚することを決める。

夫が愛したのは妻ではなく金

メネギーニは商売のためならマリアの評判が堕ちようと関係なかった。「わがまま」とマリアが評されたのは、彼女の美意識が異様に高かったこともあるが、夫メネギーニが出演料を吊り上げるため、彼女の知らないところで興行主と激しい駆け引きを繰り返したことに因るところが大きい。常套句は「妻が言っていますので」だった。そのため、アメリカに戻りシカゴで成功を収めたときには、その出演料を聞きつけ地団駄踏んだ似非興行主バガロジーと警察をも巻き込む壮絶な争いを繰り広げた。それでも彼女は夫を信じ、夫を愛していた。

マリアの名声に集る人間たちは、姉にまで近づいた。姉ジャッキーが歌を習っていたことを知ると6歳も上なのに「マリアの妹」のキャッチコピーでデビューさせた(結局は上手くいかなかった)。このことは母の策略でアテネの音楽学校入学時に年齢を3歳上に詐称したことと合わさって、「パスポートで年齢を偽ってジャッキーの姉のくせに妹だと嘘をついてきた」と、“気位の高い”マリアを悪者に仕立て上げようと手ぐすね引いてまっていたマスコミの格好のネタになってしまった。

それだけでは終わらない、母エヴァンゲリアも金の無心に来た。結婚後、イタリア男のマザコンマインドにつけ込んで義理の息子の同情を得ていたエヴァンゲリアに、マリアはずっと経済的援助をしていたのだが、稼げば稼ぐほどつけあがりより多くを求めた。それを断ると母はマスコミに近づき、「娘が金を送ってくれない」と愚痴る。すると短絡的な彼らはマリアを「なぜ母親を支えないのか」と責める。実情も知らないでずけずけとプライベートの領域に踏み込んでくるマスコミの男たちに怒り「お金がないなら働けばいいじゃない! それでも働きたくないなら身を投げればいいでしょう」と口を滑らせると、その言葉だけが独り歩きして、世間からは冷淡なディーバだと罵られる。そんな有様だった。おまけに父親の愛人にまで金をせびられる日々。

等価交換としての愛情

それでも彼女は生涯父、母、姉を支え続けた。家族が起こす問題に疲弊しながらも決して捨てなかった。普通なら縁を切っても仕方のない家族を切りすてられなかった。マリアは「愛」の意味を知らなかったからだ。彼女にとって「愛」は等価交換で与えられるものだった。生まれ出ただけで厭われた次女。家事を担う代わりに家族として認められ、歌手の才能が見出されて初めて母の視線が注がれ、性的申し出を受け止めて初めて援助され、大成して初めて結婚相手にしてもらえたマリアにとって、「愛」とは自分が差し出す利益と引き換えにしてようやく受け取れるものだった。それまでの人生に「無償の愛」という観念がない。観念がないものはたとえ目の前にあっても認識ができない。

オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のごとく自分のきらめく才能ひとつひとつと引き換えに「愛」を得たマリア。遺産を手にするため実の父親に遺書の偽造を希うプッチーニによるあのアリアは彼女のお気に入りのひとつだった。彼女はどんな気持ちで歌っていたのだろうか。

ねえ 私の大切なお父さま あの人が好きです 
あの素敵な人のことがだからポルタ・ロッサへ指輪を買いに行きたいのです
……
そしてもしもこの愛がかなえられないなら 代わりにヴェッキオ橋に行ってアルノ河へ身を投げます
……
ああ 神さま いっそ死にたいくらい お父さま お慈悲を 
願いを聞いてください

『ジャンニ・スキッキ』より “私のお父さん”

オナシスと運命の出会い

代謝障害と闘い、腸の手術を受け、術後の副作用でぶり返した肥満症とも闘いながら、あまりにも有名なサナダムシを駆除(痩せるために「飲み込んだ」ことは否定されている ※)し、急激に痩せるなど彼女の人生は常に弱い身体との闘いの連続だった。その満身創痍の状態で高難度の曲を超人的な声帯で攻略し、世界の歌姫となったマリア。バガロジーとの訴訟も抱え、家族との複雑な愛憎に苦しみ、身体を文字通り削りながらの歌声は短命で、わずか10年ほどで急速に衰えていく。体調不良で公演を中止すれば、「ただのわがままだ」と思いやることもなく断罪し、ここぞとばかりに叩く評論家やマスコミに疲れていた彼女に、恋の相手が現れた。かの有名なギリシャの海運王アリストテレス・オナシスとのスキャンダルだ。

(※1953年頃から急激に痩せたマリアはサナダムシを取り込んだと一般的に語られているが、『タイム』誌のインタビューで別の痩身療法を受けたのち再び増量したのはサナダムシのせいだったと語った。また、のちに夫メネギーニも作家レンツォ・アッレグーリに「マリアの場合は逆で、代謝障害を引き起こしていたサナダムシを取り除いたことで食事内容を変えることなく痩せ始めた」と証言している)

子宮奇形で子供を望めないことが判明し、その頃には冷え切っていた夫のメネギーニと誘われた1957年、パーティで同郷の士で人たらしのオナシスと出会いふたりは急激に距離を縮めていく。彼女の人生で恩師を除き、初めて自分から何も奪わない男性がオナシスだった。メネギーニとは宗教的には離婚できなかったが2年後には終止符を打ち、オナシスも離婚。晴れて公認の仲となった。

陽炎のように消えた“真実の愛”

1968年、出会いから10年を経て「真実の愛」にマリアは裏切られる。オナシスがジャクリーン・ケネディと突然結婚したのだ。しかもふたりを出会わせたのはジャクリーンの妹、リー・ラジウィル。彼女とも恋愛関係にあったという。2年前にはオペラから引退をしていたかつての歌姫と世界が哀れむ「J・F・ケネディの悲劇の未亡人」。名声を天秤にかけ、元大統領の妻を取ったのだった。

オナシスの裏切りに彼女は打ちひしがれる。自分の我を通す先進的な女性であると同時に、恋愛には非常にイノセントだった。かねてからのオナシスの裏切りに気付いてもよさそうなものだが、自分に少しでも親切な人をまっすぐに愛してしまう癖のあったマリアには、それを咎め批難することは難しかった。

恋愛に疎い歌姫

それを物語る最適なエピソードが残っている。主演映画『王女メディア』を監督したピエール・パオロ・パゾリーニをある時本気で結婚相手にしようと周囲に相談して驚かせたのだ。彼は監督として丁寧に接しただけだったのだが、「こんなに親切にしてくれるのは私に好意があるからに違いない」と思い込み、あれほど有名な同性愛者で作品にも嫌と言うほど表れていた彼の志向に気付かず、本気で結婚を望んだ。彼女はそれほど純朴だったのだ。

無償の愛を与えられず、愛との付き合い方もわからずにまっすぐに人を愛そうとしたマリア・カラス。オナシスはジャクリーンとの結婚後、数年でマリアが向けていた愛情が如何に妻とは異なるものかに気付き、復縁する。そもそもこの結婚はジャッキーが子どもたちを暗殺から身を守るための盾として選んだ手段。権力者や富豪が妻を“トロフィー”として選ぶことは世の常だが、すでにマリアからまっすぐな愛情を与えられていたオナシスは、彼女の元に戻るしかなかった。体調も崩し弱ったオナシスは亡くなるまでの数年間、マリアの愛を受けながら過ごした。

死後争った遺族たち

1975年オナシスが亡くなると、2年後マリアは突然心臓発作でこの世を去ったが死因ははっきりとしなかった。死の直前には薬物調達者が近づき、「友人として」親族に相談することなく「遺言に従って」火葬されたからだ。16年も会っていなかった姉はそれを暴露し、(元)夫メネギーニら遺族や関係者は複数の遺書を持ち出し、遺産を巡って法廷でいがみ合った。娘の悪口をあることないこと暴露することでマスコミと共犯関係にあった母親は、葬儀では「私の方が死んでおけばよかった」とさめざめと泣いた。まるでソープオペラのような展開だ。

だがマリア・カラスの遺書はそんな母と姉にも遺産から経済支援を続けること、使用人にも十分な金額を与えること、音楽家の卵たちのため「カラス奨学金」など支援基金を立ち上げること、ミラノの国立がん研究センターへ寄付することなどが書かれていた。

最後まで与え続けたマリア・カラス。尊い才能にふさわしい愛情が与えられることはついになかった。

閉じ込められた人生

死の前、デヴィッド・フロストのインタビューにこう語っている。

「私は母に閉じ込められ、今度は夫に閉じ込められたのです」

「籠の鳥から教わった」あの歌声を武器に人生と闘ったマリア・カラスは、死によって苦しい人生から解放された。

死後、彼女が残した遺産によって多くの若者が学びの場から巣立ち現在も活躍している。与え続けた彼女の偉大な功績はここにあり、この世から旅立った彼女はもしかしたらようやく報われているのかもしれない。

【参考文献】
『Maria Callas mia moglie』by Giovanni Battista Meneghini /Rusconi 1981
『Maria Callas :Sacred Moster』by Stelios Calatopoulos / Simon and Schuster 1999
『マリア・カラス 聖なる怪物』(白水社刊)ステリオス・ガラトプロース 高橋早苗訳
『La Vera Storia di Maria Callas』by Renzo Allegri /A. Mondadori
『真実のマリア・カラス 増補版』レンツォ・アッレーグリ(フリースペース刊)