前記「記憶している経験の個数×それぞれの感情の大きさ=一定」からさらに敷衍する。
人間は古代から宗教的観念を共有している。それを分類すると次のようになる。
①アニミズム………動物や自然物、先祖などの「霊」を信じる
②多神教……………さまざまな権能を帯びた「神々」を礼拝する
③一神教……………宇宙の独裁者である「唯一神」の権威に服する。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が典型。
④悟りの宗教………人生の霊妙な理法を「悟る」ことを目指す。仏教、儒教、道教などはこの系統。
記憶している経験の個数が少ない場合には個々の感情が大きい。その場合に、アニミズムが発生する。例えば木から果実が取れるし、木は日陰を作ってくれるし、鳥が巣を作るなどを見ればありがたいものだと思い、木の精霊などを想定することになる。
キリスト教の拡大に際して、ヨーロッパ北部の民族と文化接触が起こった。キリスト教は一神教なのでアニミズムについては公式見解としてやや否定的な意見なのだろうけれども、布教活動の観点から、土着の民衆の観念との妥協が必要であった。シンクレティズムや融合が発生する。
たとえば、キリストの誕生日は聖書に書いていない、またクリスマスにクリスマスツリーを飾るなども聖書にはない。これは北方民族の持っていた、冬至から世界は復活するという観念や、木の精霊を尊ぶという観念と妥協して、キリスト教内部に取り入れた結果である。
こうすることで、いまのドイツのあたりに住んでいた人々もキリスト教を受け入れやすくなった。
このようにしてアニミズムや多神教の観念が強く否定されることもなく、しかしかなり薄まった形で、文化の中に保存されてゆく。
すると、人々の観念や言い伝えや言語の中に、それら、アニミズムや多神教の要素が残ることになる。
さて、ここで「記憶している経験の個数×それぞれの感情の大きさ=一定」を考えると、古代人のように体験個数が少ない場合には感情は大きくなるので、木についても精霊を考えたり、人間の魂を想定したり、山には山の神様がいると考えたりする。これは一つ一つの体験が強い感情を呼び起こすからであろう。
一方で、現代人の知識人層には、基本的に科学的素朴唯物論を前提とする人が一定数いるように思う。そんな人たちも子供のころはアニミズムや多神教に親しんできたはずである。しかしいろいろと見聞を広め、考えを深めるうちに、一神教にも理解を示し、一方では悟りの宗教にも理解を示し、またさらに唯物論的世界観にも理解を示すようになる。それぞれは物事の別な解釈であると考えて、合理的に混在させている。中には一神教と唯物論をシンクレティズム的に融合・統合しようとする人たちもいる。臓器移植などの医療行為の一部はアニミズム、多神教、一神教、悟りなどの整合的な混在を許さない側面があるので、議論もあるし、感情的に悩む場面も発生する。
一般に、科学を学んだり唯物論的思考を学んだりすれば、視野が広がり、世界をアニミズムとも多神教とも一神教とも違う観点で解釈できると知ることができる。しかしこのプロセスで、別の立場からの世界認識も経験の一つであるから、経験の個数が増えるので、一つ一つの強度は弱くなる。そうすると、アニミズムや多神教に対しての攻撃的態度は薄くなる。感情強度が低いので、特に反論する必要もない。一部には古くからの思考習慣としてそのような立場があり、理解が容易で、論理的不整合を考えてしまうような知能がない場合にはそのまま信じていると解釈される。
以上総合すると、
①アニミズム………動物や自然物、先祖などの「霊」を信じる
②多神教……………さまざまな権能を帯びた「神々」を礼拝する
③一神教……………宇宙の独裁者である「唯一神」の権威に服する
④悟りの宗教………人生の霊妙な理法を「悟る」ことを目指す
⑤唯物論
おおよその話、体験個数が少なくて体験感情強度が強い場合にはアニミズムや多神教に近くなる。体験個数が増え、体験感情強度が弱い場合には一神教、悟り、唯物論に近くなる。