自由意志の問題

こんな話とかいろいろある。紛らわしいのは、自由意志の問題は昔から哲学とか宗教の問題だったので、ある程度の蓄積もあり、よく理解していない文系の人とか宗教の人とかが、分かっているかのように得意顔でする話であるが、これらは、自分が理解できていないということも理解できていないのだから、行き止まりだと思う。自由意志の問題に宗教とか、果てはインドの古い話とか持ち出して、論証もしないで「ブンガクテキ」に自己納得しているのは、自己反省なく、自己モニタリングもできていない、ナルシスだと思うのである。

そんなことより、われわれは精神医学の中で、自意識の障害をたくさん扱ってきた。その点で、精神科医は、自意識というからくりの本体はまだ謎ではあるものの、それが壊れた時にどんな様相を呈するかについては経験があるのである。からくりが壊れたらどうなるか、そこから推論して、からくりの本体を推論したいのであるが、力及ばず、発想がわかない。

自意識の障害は、自意識の自己所属性の問題とか、自意識の単数性の問題とか、自意識の当然に持つと考えられている能動感の喪失と被動感、時間的統合、これらを標識として、症状、病態を分類して、名前を付けてきたのである。どのように始まり、どのように終わるか。どのような薬剤がどのように効果を現すか。脳の写真の蓄積もある。

壊れた様子を子細に観察すれば、そのからくりが少しはわかりそうなものだが、いまだに手がかりもない。遺伝子解析で何か見つかるだろうと思われていたが、統合失調症と躁うつ病を分けることの妥当性も怪しいとのことで、いまのところ大きな前進はないようだ。

むしろ、コンピュータが非常に複雑化した時に、いままでのコンピュータが持ちえなかった、意識の自己所属性とか単数性とか能動感とか時間的統合とかの糸口が見つかるのではないかと期待している。コンピュータ科学者のほうが、結果の解釈が妥当なので、頼もしい。

神経細胞の組み合わせからどうして自意識が発生するのか。それはたとえばビッグバンの「前」の宇宙はどうだったのかとか、宇宙の「果て」に行って手を伸ばしたらどうなるかとか、宇宙はどのような「舞台」の上で膨張しているのかとか、そんな謎と似ていると思う。

宇宙の謎はそれ自体で謎であるが、ひとつ確認しておきたいのは、そのように宇宙を認識して推定しているのは、脳だということだ。だから、宇宙の謎があるとして、それは宇宙自体の謎ではあるが、それをそのように意識している自意識の問題でもあるということだ。あるいは宇宙を考えている脳は問題としている宇宙の一部であるという問題もある。

脳が脳を観察することの問題は昔から言われてきた。脳という複雑系が理解できるのは、脳よりも複雑さの程度が低いものでないと理解できないのかもしれない。脳が脳を理解するという場合、観察される脳の複雑さの次元を小さくして議論する必要があるかもしれない。そして、脳の複雑さを一次元だけ低くするとき、失われるのが、自意識であるという事情になっているのではないか。

まあ、こんなことを言っても何にもならない。雲をつかむような話だ。宇宙と脳の話はやめて、量子力学と脳の話をすると、有名な観測者問題がある。量子の状態は波動方程式によって表現される確率分布であり、可能性の重ね合わせであり、それを観察しようとすると、力を作用させることになり、たとえばエネルギーとか速度とかを観察はしたが、その瞬間に、力学量は変化してしまう。そこまではいいとして、観察するとはどういうことか。観察者が意識をもっていることはどのように関係しているのか。この問題で、測定の間接化とか複雑化を考えるらしい。人間が量子に光を当てて目で見るというとある程度直接的であるが、人間が一週間先に力学量を測定するつもりで、測定装置を組み立てて、発動させないで置いたとする。人間がその力学量を数値としてみるのはさらに一週間後とする。つまり、測定装置をセットしてから二週間後、つまり測定装置が発動してから一週間後に、プリントアウトされた数字を読むとする。

装置がセットされてから、一週間たって、測定装置は発動する。そして力学量を測定した。そのとき存在の重ね合わせ状態は解消されるのか。それとも、二週間たって、人間の意識が数字を見た時に重ね合わせが解消されるのか。いつもの猫の存在の仕方はいつ確定されるのか。

意識などという言葉を使っているからトリックに引っ掛かりそうになるが、実際、最後まで物質系に過ぎない。それなら直接に近い観察でも、間接化して複雑化したのちの観察でも同じではないか。意識などというものは仮定しても仕方がない。からくりによって虚像を信じているにすぎない。

しかしそれならばどうして観察者問題が生じるのか。物質系に過ぎないものが何をしてもそれを「観察する」と定義することは難しいだろう。どのようにして重ね合わせは解消されるのか。実験系に偶然に光子が侵入し、被測定量子に衝突したら、それは観測と同じ状況であるが、そのときも重ね合わせは解消されるのか。

そんな風にして、量子力学の場面でも、意識の問題はさまざまに語られる。宇宙といい、量子といい、なぜなんだろう。それはつまり、意識が考えているからなのだろう。意識以外の何かが考えれば、意識の問題は侵入しないで完結するのではないか。私には意識以外の何かが考えるとはどういう状態なのか説明できないが。コンピュータが計算して、将棋の次の手を出力したとして、それは考えたと言えるのか。それとも、コンピュータのハードを作ってソフトを作って、セットをして、スイッチを入れたというところに意識は存在していたのであって、そのことが実質の考えるという部分なのか。そのように考えることもできる。

あるいは、それならば、コンピュータを作ったのは人間の意識であるとすれば、人間を作った、あるいはこの宇宙の生成に関与した者の意識を考えれば、人間に意識はなくても、いいことになる。それは現在の将棋コンピュータに意識がないのと同じだ。量子の物理量を測定するための装置に、意識がないの他同じだ。人間という物質系は、量子測定するための物質系に過ぎないではないか。

量子の物質量を測定するための装置に意識がなくて、それをセットした人間に意識があるというなら、人間には意識がなくて、人間を作った者に意識があるともいえるのではないか。

という具合に、グネグネしてしまうのが人間の意識というものなのだろう。全体の解釈としてはパラレルワールドのほうがすっきりする。