下書き うつ病・勉強会#44 病前性格について3

うつ病や統合失調症の診断と治療にあたって、日本ではここ80年くらいの間、ドイツから輸入された病前性格が重視されてきた。古くはクレッチマーが性格類型と精神病とさらには体格と関連づけて整理した。日本の義務教育の教科書に上記3類型の一人ずつ3人分の挿絵入りで載っていたのを覚えている。体型と性格傾向と精神病の3者を関連付けたものであるが、最近の例では、

クレッチマーの類型論
躁うつ気質・循環気質(同調性気質) 社交的、融通が効く
分裂気質(内閉性気質) 非社交的、敏感かつ鈍感
てんかん気質(粘着性気質) 几帳面、融通が効かない

などと記載がある。最近のものには体型は省略されているようだ。そのように省略していいものかどうか怪しいところはあるが、逆に言えば、体型以外の、病前性格と病気については有効な知見であると考えられていると思う。単に昔からの心理学の先生がいまだにご健在というだけではないのだろう。古いから賞味期限切れということでもないのである。

循環気質について言えば、社交的、外交的、融通が利く、人情家、お祭り騒ぎが好き、集団の熱狂を好む、などの特性を持つ循環気質は、その後のいろいろな類似の性格類型にもまして、実際の臨床で使いやすい性格類型である。

分裂気質については、①非社交的、静か、控えめ、まじめ、②臆病、恥ずかしがり、敏感、神経質、興奮しやすい、③従順、気立てよし、正直、無関心、鈍感、などの特徴がある。①群は一般的な特徴で、周囲の人との接触がうまくいかず、冷ややか、頑固、形式主義というような印象を与える。②群は神経の過敏さのために、興奮しやすいという特性を持っている。③群は鈍感さを示すもので、決断が出来なかったり、服装などに無頓着であったり、感情の表出が少なかったりすることが含まれる。②群と③群は相反するものであるが、両者が共存するところに特徴がある。
一応このように書かれてはいるが何を観察して、何を根拠に、何を理論として、発想しているかが不明である。書き方が悪いのだと思うけれども、統合失調症の人によく見られる諸項目を薄めて性格としたというような安易な感じはある。
分裂気質という用語は、統合失調症という病名がいろいろな経過もあり決定されたものなので、ある程度気にしないといけないのだろう。パーソナリティ障害の項目でも統合失調症型パーソナリティ障害とかシゾイドパーソナリティ障害などの用語となっている。
分裂気質をシゾチームと表記すればよいので、ここではシゾチームを用いる。

まず循環気質について考えると、類似のものがいろいろあって、メランコリー親和型、執着気質、が有名。そのほかには同調性格とかマニー型性格がある。それぞれがどのようなものか、いろいろな意見表明者において、概略は一致しているとしながらも、実はかなり違うことをイメージしていたりする。単なる習慣として自分の周囲に合わせてそのように用語を用いている場合もあるだろうし、考え抜いた末の確固たる信念として用いている場合もあるのだろう。しかし意見の違いもあるわけで、その場合、科学ならば、実験して確かめようということになるが、性格の話の場合は、最初に行ったのは誰で、そこではどのように言われていたかなど、さらにはその重要人物の考えがどのように変遷したかなど歴史好きの文献紹介のようになっている。
そうではなくて、治療に役立つものなら使いたいし、役立たないなら、もう忘れてもいいだろうと思う人が大半だろうと思う。ニュートンが何を言ったかをいまだに論文に書いている人は物理学者ではなくて、古文書好事家である。高校の物理も、ニュートンの話ではなく、もっと分かりやすくて、後々まで役に立つ導入がある。
性格が測定できない。病気との関連を説明できない。何が大切か証明できない。だから、いろいろな人がいろいろなことを言っても、正しくないと反論もできなくて、放置されている。その意見を子引き、孫引きする人がいて、ますます収拾がつかなくなる。それが現在の混乱であるが、おかしなことは、この混乱の中で、特に不都合も発生していないことだ。

病前性格論は、先輩から後輩に伝えられたものだ。先輩たちが共有しているパラダイムであった。そこに後輩が参入するためには、先輩たちのパラダイムを受け入れる必要があった。天動説と地動説のように、証明ができるものでもなかった。ただ、受け入れるか、疑問を感じて立ち止まるかである。天動説では、観測事実を説明できない場面がいろいろあったが、そのたびに修正案を付け加えて、次第に天動説は複雑怪奇で理解不可能な専門家の専有物となっていった。今現在では、シナプスにおける神経伝達物質説が昔の天動説末期のようになっている。なにしろ、抗うつ薬の主力が神経伝達物質主義なので、容易に旗を降ろすことはできない、しかし都合の悪い実験的事実は続出する。そこでいろいろな弥縫策が展開され、次第に理解しにくく、迷路の中にまた迷路のようなことになってしまっている。科学とはそのようなものではないと私は感じているが。
そのパラダイム、つまり、執着性格やメランコリー親和型と躁うつ病なりうつ病なりの関係を受け入れて、病前性格論は役に立つという共通認識の中に入ってしまえば、その外側に出ない限りは、心地よく過ごせるのである。ドイツ精神医学をありがたがってきた日本としては病前性格論受容は当然の帰結であろう。一方、ドイツでは、病前性格論はあまり重視されていない様子である。
そうした状況に、アメリカからDSMがやって来た。DSMは病前性格などは取り上げていない。昔はⅡ軸診断があって、多軸方式は日本式の診断方式に似ていてよいと考えた人もいたようだ。しかし結局、そんなものはあいまいな、言ってみれば民族固有の信仰のようなものであって、考慮に値しないものとされた。ここで、日本の学者は、ドイツの流れを組み、現在主流派である側にとどまるか、将来が明るいアメリカ派に鞍替えするかの、二者択一が迫られたはずだった。しかし実際は、あいまいに、日本国内ではドイツ翻訳主義で国際学会ではアメリカ流で、なんの不都合もなかった。ドイツ翻訳主義日本流とアメリカ流は翻訳可能だと思った。翻訳可能だと思い、不都合を感じなかった現実は重い。つまり、よく考えれば、不都合がいろいろあるのに、不都合を感じなかったのである。矛盾を感じない知性だったのか、矛盾を解決する知能があったのかは、不明である。
いずれにしても、器用に両者を使い分けていて、深刻に悩む風もない。

しかし時間がたつにつれて、アメリカ流でも飯が食っていけると思った学者さんは、メランコリー親和型は意味がないのではないかとか執着気質は意味がないのではないかと言い始めた。あくまでも論文のネタになるからである。病気は、治ればよいのであって、それ以外は趣味でしかない。

しかしまたここで問題が立ちはだかった。メランコリー親和型とは何か、執着気質とは何か、そして病前性格とは何か、そもそも何より最初に、双極性障害、単極性うつ病、統合失調症とは何か、どれもこれも、あいまいな点を残したままである。領域のはっきりしないAと領域のはっきりしないBはどういう関係があるかと言われても、なんとも言えないとあいまいに濁すしかないだろう。みんな生活があるから、当面はこのまま、現状維持でいいではないかとの温和な現状維持である。それが大人同士の知恵というものだろう。
精神医学という学問がどうであろうと、自分たちの生活が第一なのである。
それはまた精神医学的には意味のある現象であり、使用している心的防衛メカニズムはなんであるかなど、考察することができるだろう。都合の悪いことには集団で目をつむる。見えていても、見えていない。不思議なものだ。

そんなわけで、たとえば執着気質にしても、間違いもあり、間違いの子引き孫引きもあり、さらには子引きの際の間違いもあり、で現在に至る。メランコリー親和型についてはなおさら。

心理学系の性格類型は説得力に欠ける。一時はいろいろあった精神分析系の性格分析もすっかり消えて知的な人間には住みやすくなった。
 
それにしても、先輩がみんな「見える」と信じている思い込みを後輩も受け入れてしまうのは恐ろしいことだ。こうした集団同調性が人間の遺伝子に組み込まれているので、先輩の思い込みをそのまま受け入れてしまい、自分でも信じ込み、実際にそのようにしか見えなくなる。一人で反抗することはできない。せめて、内心で、自分には見えないとの認識を保持することはできないのかと思うが、当然それもできない。みんなが見えるものは見えるのだ。みんなが見えないものは見えない。その前提でいろいろな議論が行われ、結論を受け入れ、確信はさらに強固になってゆく。実は幻だろうとは誰にも思えなくなってしまう。「王様は裸だ」という話そのままである。
そのような心のメカニズムも見える。不思議なものだ。

私としては、以上の事情も踏まえつつ、それでも、クレッチマーのシゾチームとチクロチームは、病気の場面に限定せず、ひろく人間の把握に役立つものだと思っている。これも習慣の問題なのか、とも思うが、まあ、特に害もないのでいいかと思っている。

中井久夫は二宮金次郎から現代日本社会まで論じていて、読み物としても世間の評判は高い。
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メランコリー親和型と執着気質については、前述の通り、時代が経過するにつれてあいまいになっている。したがって、ここで私などが何か意見を述べても実りはない。

病前性格一般について述べると、たとえばビッグファイブも、クローニンジャーも、性格について因子分析をしてどうしたとか、数学的分析を武器にしているので一見正しさがあるのかと思うが、私はそうは思わない。
そもそも、そうした理論の情報収集段階を考えると、たいていは、自記式の性格評価である。極端に言えば、あなたは几帳面ですかと訊いて、几帳面だと答えたら、性格は几帳面となる。そんなアホなと思う。
あるいはあなたは几帳面ですかと訊くのはあまりにダイレクトなので、あなたは生真面目ですかとか、律儀ですか、折り目正しいですか、などと違う言葉で、近い意味のことを訊く。まあ、結局同じことだ。
東大式エゴグラムなどでは顕著であるが、あなたは優しい人ですかと訊いてはいと答えると、あなたは優しい人ですと人格タイプ判定が出る。そのあとのエゴグラム的な解釈が大事なのだろうけれども、疑問は残る。最近はあまり使われていない。


自記式性格評価について言えば、こんな問題もある。あなたは人に気を遣いますかと質問されて、私は普通よりも人に気を遣いますと答えたとする。そのとき、その人が、一般の平均よりも対他配慮をするタイプだと考えてよいだろうか。
おおむね、人間の性格や身長などは、ガウス分布をするだろう。たいていの人は平均点近くに集まる。だから大半の人は平均点の人なのである。その平均点の人が、自分は世間の人よりも他人に気を遣うと答えたとしたら、その人が平均からずれているのではなく、その人の平均の観念がずれているということにならないだろうか。
世間の人はさほど他人に気を遣っていないものだという観念があるから、実際は自分が平均点であっても、自分の頭の中の世間の平均点と比較すれば、自分は人に気を遣うほうだとの自己評価になる。社会である程度の年数を過ごしていれば、自分の考える平均程度の勤勉さと外向性と協調性と感情表出を自分のものとして調整して身に着けるはずである。
だから、その人を客観的に評価したとして、その人の頭の中にある世間の平均像と同じ水準になるはずではないだろうか。人間は自分の考える普通でいたいものだ。人よりも堕落しているのは人間として認められないし、人よりも優れているとしたらそこまで努力する必要はないと思うだろう。結局自分の頭の中の平均とだいたい一致する程度の範囲内に収まるのである。
すると我々がその人を客観的に評価したとして、そこに現れたものは、その人の本来の性格ではなくて、その人が世間の人は平均するとこんな感じ、だから自分もそれに合わせていこうと考えた結果、ということになるのではないか。合わせていこうと思ったとしても、もちろん、合わせていない部分は出るものだ。その部分に関しては、多分、十中八九、その人は平均的なことが多いのだから、現実の平均である自分と、頭の中の世間の平均とを比較して、自分は勤勉ですとか、協調性がありますとかに〇をつけるのだろう。
そのような自記式質問紙がどの程度信用できるのか。もちろん、信用できない。そのデータに関しての因子分析とか主因子分析とか、数学としてはよくできているのだろうが、元のデータがこれではどうしようもないだろう。また更に、因子分析と主因子分析の学派的対立は今も続いているそうで、私にはよく分からないが、どうしたものだろうか。

病前性格について言えば、まず性格評価がそのようなわけで信用できないのに加えて、病気の分類についても信用できない。信用できないものと信用できないものの関係をどうだと言われても、考えるだけ時間の無駄である。論文を書きたい人にとってはどうにでも結論を導ける領域ということになる。

自記式評価のもう一つの問題は、本当に病前性格かということだ。何度かうつを反復していたら、病前性格ではない。病後性格である。しかし、今回のうつエピソードについては病前性格だということも言えるのだが。

病前性格と病気については何のメカニズムの仮説も提案されていないし、広く認められた仮説もない。つまり、統計的に認められているものなのかと言えば、統計はどれに対してもあまり肯定的ではない。経験のある精神科医たちによって支持されているということになるのだろうが、科学であるからにはメカニズムの説明がないと、納得できない。

ということは、現状では、神経伝達物質のシナプス間隙での振る舞いが、病前性格の面からみて、どうなのかという話になる。だからクローニンジャーの昔の説明などになるのだと思うが、あまりにも稚拙で血液型性格と同じ程度でしかない。

症状からみて反対とみなされているうつと躁は、セロトニン仮説で言うと、反対ではない。治療薬についても、反対ではない。病前性格についても、多分、反対というわけにはいかないのではないか。この辺りも問題である。

また、診察室でよくあるのだが、母親が子供についての性格の説明をしたとする。その母親の口から出る言葉が非常に意外で、困ることもある。本人である子供が語ることと、母親飲んたることがかなり違う。また、診察室と待合室で観察される本人の様子ともかなり違う。そういう場合、性格評価はどうな根のか。もちろん、回数を重ねていれば、治療者の観察が一番重要。本人の申告は本人の頭の中を反映していて、家族の申告は家族の頭の中を反映しているということになる。治療者が見ているのは病後の性格なのだが、それについての評価も本人、家族と、三者でずいぶん隔たりがあるわけで、どれが病後性格なのかと思うが、それを延長すると、病前性格についてはかなり信用できないと言わざるを得ない。

しかしそれでも、過去数十年の間、病前性格は精神病診断の大きな柱であったことを考えると、これはどういう事情であったのか、さらに考察を要することのようだ。共同で夢を見ていた精神科医たちなのであろうか。

それなら病気も幻なのかと言えば、それも違うと思う。幻ではないが、周辺部というか、輪郭のあいまいな部分は少し怪しい。しかし中心部分は問題ないと思う。(つづく)