うつ病の悲哀と意欲低下
うつ病の特徴はいくつもあり、その中のどれが大事かなどは議論になる。
生気的悲哀感(Schneider)などは歴史的にも有名である。
最近のDSM統計用診断などでは
1.悲しみ、憂鬱、悲哀
2.エネルギー低下、意欲喪失
の二つの柱が主張されている。
この二つはどう見ても、独立の話のように思われる。
つまり、一つの原因がうつ病を引き起こし、悲哀とエネルギー低下が起こるとは考えにくい。
エネルギー低下は単純にエネルギーの欠如である。
悲哀はそうではなくて、普段の景色が悲しみに彩られる。ここで、「生き生きとした楽しさが失われるから悲哀を感じるのだ」と言うこともできる。そうすれば、「エネルギー、活力」と「生き生きとした楽しさ、快活さ」を同根のものとして考え、それが欠如した状態としてうつ病を描くこともできそうである。
しかしそうだろうか。
エネルギー低下してむしろ「落ち着く」「安定する」「不安・焦燥がなくなる」ということもあるだろう。
精神科病院の臨床ではしばしば精神を「鎮静」に向かわせるが、その時、悲哀が現れることはないだろう。鎮静はエネルギー供給停止に近い。
だとすれば、この二つはやはり同根ではない。それなのにうつ病のときにしばしば同時に見られるのはどうしてなのだろうか。
エネルギー低下だけがあり、悲哀のない病気の人は確かに存在すると思う。
悲哀だけがあり、エネルギーは普通程度だという人はやはり存在すると思う。悲哀は大きいが、普段の行動は怠慢になることなく、順調にこなす人もいる。
正確に見分けていないだけなのか、われわれの認知の習慣のせいなのか、それとも見当はずれの話なのか、よく分からない。
科学ではこのような場合、まず精密に測定し、それを数学で分析することが多い。
悲哀を測定すること。意欲低下を測定すること。
まずそこからなのだが、どうしたらいいのだろう。
同様に、妄想性疾患の場合には妄想の量や質を「測定」することがまず必要なのだが、どうすればいいのか、いまだにわからない。
昔のうつ病の議論で、精神病性うつ病の場合、心気妄想、貧困妄想、疾病妄想の3つが代表的だと言われていた。
最近はあまり強調されない。むしろ妄想なら妄想に効く薬を使うという発想にもなる。
測定して数学を用いる。それができないのは残念だ。
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億劫だけど世界は生き生きしているなんて言うのも苦しいだろう。
億劫なら、それに応じて、世界は悲しみに満ちて無意味ならば、何もしなくても苦しみはない。