『日本語と私』大野晋。1999年。
『日本語と私』大野晋。1999年。
大野晋の著作については、まず言語構造と精神構造の関連はどうかという関心で読んだ。そのうち、大野の日本語文章が非常に平明で読みやすく模範的だと感じるようになった。
本書の解説として井上ひさしの文章があり、その中で大野の文章の質について賞讃している。
交友の中で有名な名前がたくさん出てくるので驚く。みんな知り合いなのか。
GHQがやって来たとき、日本語の漢字かな交じり文章は廃止して、ローマ字で書けばよいと提案があり、それがその後どうなったかの話がある。フランス語にすればいいとかいう志賀直哉の意見など。
私の経験では、中村元氏は講演の中で、日本語表記としては漢字使用をやめて、ひらがなだけを使用し、漢字は使わない、分かち書きをして、分かりやすくするのがよいと語っていた。
つまり、話し言葉をそのまま、ひらがなだけの分かち書きで、書き言葉にするという主張だったような気がする。
考えてみれば確かに、話し言葉で十分生きているのだから、漢字を使う必要はないようにも思う。講演会で難しい話でもしているのだから。
実際日本語との類似性が大きいとされる朝鮮半島のハングルは表音文字であり、それで生きているのだから、充分なのかもしれない。
現在の日本語文章は漢字とカタカナ交じりであり、速読に適している。しかしそのことが教養のすそ野、底辺への広がりを狭めていると考えられる。一方で、漢字とカタカナを除去してしまったら、深い思考はやや失われるかもしれない。表現の幅は失われる。
ドイツ語は表音文字にかなり近い。英語は教養がないとスペルを間違える。話し言葉だけで生きている人は書くことが難しいだろう。
漢字とカタカナを混ぜることで、学者などが読者を欺いていることもあるだろう。ひらがなだけにすれば、嘘をつきにくくなるのかもしれない。分かりやすい表現を書き手は心がけるようになるだろう。
明治時代の新聞に比較すれば現代の文章は漢語割合が減少し、カタカナ英語割合が増加している。カタカナ英語をひらがなで表現していくのはなかなか大変だろう。漢語の力が必要なのだろうと思う。しかしダイレクトにカタカナで使うのではなく、和語に置き換える工夫をすれば民衆が騙されることも少なくなるとは考えられる。
また、今後中国の経済力や科学力、文化力が増大するにつれて、日本語も中国語を輸入して使うことが増えると思われる。そのときは多分、英語のカタカナ変換と輸入と同じで、中国の漢字でダイレクトに表記するようになるだろう。その点では簡体字の採用が必要になるだろう。どうせやるなら早いほうが得策だろうと思ったりもする。
ひらがなだけで文章を書くのは難しいと思う。また一方で、我々は話を聞くときに、漢語を自然に受け取っているが、それは頭の中で漢語に変換しているのだろうか。それとも音のままで受け取っているのだろうか。漢語の駄洒落は頭の中で二つの同音の漢語を思い浮かべているのだろうか。橋と箸はイントネーションで区別している。ひらがなで書いてしまうと区別が難しい。東大と灯台は区別できない。
このあたりがよく分からない。