『日本人の神』大野晋、2001年。
日本人と日本語における、神について。古代、稲作、漢字、仏教、儒教朱子学、キリスト教のGod、Deusの輸入、それぞれの時期における神の概念の変容、拡大、旬か、などの様子。
本居宣長の話など面白かった。
こうしてみるとどんな偉い人も時代と地域の制約の中に生きている。なにもあくせくすることもない、ゆっくり生きればいい。
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野球の神様
プロ野球でここぞというときに良い活躍をした選手がインタビューで「野球の神様が僕にチャンスをくれたと思います」などと答える。
その場合の、野球の神様とはなんだろうか。一神教の神は一つしかないのだが、アニミズム的世界では、山にも海にも、野球界にもサラリーマン界にも、それぞれの神様がいるということなのか。分業制なのか。
野球の神様がいるなら、ピッチャーの神様、フォークの神様、ストレートの神様、盗塁の神様、バッターの神様、ホームランの神様、カウントによって2-1の神様、なども想定するのは自由だ。
しかしその場合の、神様の役割分担はどうなるか。
ピッチャーの神様に頼るよりも野球の神様にお願いしたほうが効果的なのか。ヒエラルキーから言って上位と思われる。
ピッチャーの神様とバッターの神様は利害が対立するけれども、そのあたりの最終調整はどうなっているのか。
たとえば学問の神様に受験合格のお願いをするとして、どこの神様が一番効力があるのか、考えないだろうか。
そこまで真剣に思ってない、ちょっと願掛けをするだけ、本気で信じているわけではないと感じる人が大半だろうけれども、そのようなあいまいな習慣が、のちのち大きな影響を及ぼすかもしれない。
いいことばかりではなく、人の願いには邪悪なこともある。あの人に不幸が降りかかりますようにと願う人もいるかもしれない。一方では、そんな呪いからは逃れたいと思ってお願いをするかもしれない。
ある種の神様は邪悪な願いは聞き入れない。しかしその原則があっても、正義の実現のためにあの人には不幸になってもらいたいとの強い願いもあるかもしれない。そんな場合は神様はとても困るだろう。
などと思うけれど、言いたいのはそんなことではなく、日本人の言語習慣の中に、自然な形で、たとえば「野球の神様」というような表現が違和感なく野球選手の口から出ることが日本語の観察として面白いと思った。
この場合の「神様」という言葉の意味内容を吟味して、日本語の内部に埋蔵されている歴史の層を掘り起こすこと。