価値判断と理性と説得可能性 F(x)=A

価値判断と理性と説得可能性
たとえばニュートン力学の世界観では、物体の位置や速度やそれに作用する力などの前提条件を与えられれば、任意の時間での物質の状態を知ることができる。F(x)=A
数学でも基本的には、前提条件を与えられれば、結果を導くことができる。F(x)=A
論理学でも同様に、前提条件を与えられれば、結果を導くことができる。F(x)=A
このように、前提条件と論理・法則とに分けることができる。

人間が生き方を選択するとか、さしあたっての行動を選択する場合とかも同様に、前提条件と論理・法則とに分けて考えられるだろう。
論理・法則については、人間の脳の場合は知性とか理性といっていいのだろう。一方、前提条件は基本的価値選択であり、ジョナサン・ハイトは「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「神聖」「自由」の六つの類型を考えた。それらをどの程度重視するかが、人間の行動選択の前提条件となる。
価値選択の内容をxとして、知性をF()とすれば、結論Aが導かれる。xはジョナサン・ハイトによれば6次元であるが、ここではベクトルとしてひとまとめにする。
F(x)=A

他人と議論するときにはAの内容について議論するのだが、その場合、議論の内容としては、違いがxなのかFなのかが意識されると効果的である。
なぜならxの内容について議論することはなかなか困難だからである。Fの内容についてなら、議論の余地がある。お互いに納得できる場合がある。
ところが、Aの違いについて議論するときに、それがXの違いに由来するのか、Fの違いに由来するのか、はっきりしない場合が実に多い。

他人が、私にとって思いがけない行動をする場合、行動選択の前提条件xが違っている場合と、前提条件から結果を導くプロセス(理性)Fが異なっている場合がある。

ここで、理性は、現状では異質のものがあるとは考えにくく、正しい論理と間違った論理があるのだろう。私とは違うが正しい論理があると考えるのはかなり高級な思考であるので、ここではとりあえず、唯一の正しいものとしておこう。たとえばユークリッド幾何学と違う幾何学があるとの話は分かるが、日常生活で役に立つ幾何学はユークリッド幾何学である。その意味で、正しいのは一つだけで、それ以外は、正しさに到達していない、曇った理性ということになる。
試験問題を解く能力がこの部分にあたる。だからこそ、試験問題には正解があるし、点数をつけることができる。
国語の問題も、前提条件を与えて結論を導くものなので、その人の人生経験や人生についての態度、または感受性などは関係ないのである。
したがって、訂正することができる。その意味で理性がある限り議論の余地がある。

一方、前提条件はどのようにして形成されるのだろう。
ジョナサン・ハイトは「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「神聖」「自由」の六つの類型を仮定して実証しようとしたが、そのようなものはどのようにして形成されるのだろうか。そしてそれらは議論によって訂正することができるのだろうか。
考えられるものとしてはまずDNAタイプで決定される、生来の傾向である。これは先天的な傾向であり、訂正しにくい。
脳の構造として6つの別の回路があるのか。6つの別の神経伝達物質があるのか。意思決定回路に6つの神経回路が接続しているのか。どう考えたらいいのだろう。
次は後天的な経験により獲得された基本的価値であるが、人間の生育条件は複雑でなかなか分析しにくい。兄弟であっても、思想信条が異なることはある。リベラルな頑固と保守の頑固と兄弟で分かれる場合があり、頑固は共通した気質であるなどという場合もあるだろう。

あなたはAという考えなんですね、それで、Fとxはどうなっていますかと分析して、Fの曇りの程度はこれくらい、xの内容してはこんな感じ、だからAです、という具合に提示されれば、Fについてなら間違いを助言できる。xについてならば、他人は違うxのセットを持っているのだから、それを忘れないでね、という程度は助言できる。

ここで、Fとxの違いを区別できず、曇ったFで異なったxを前提として話がかみ合わないという場合、どうしていいものか、途方に暮れる。
このような人たちはお互いに交わらないで距離を保つのが心の平和の維持には大切かも知れないが、現実社会はそのような場面ばかりではない。
集団として意思決定しなければならない場面もあり、説得に苦労するだろう。その場合に、自分はどんな相手に、何を説得しているのか、充分に分析して意識しておくのが良いと思われる。
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というようなわけで、AとBというように考えが違う場合、まずFについて検証し、お互いに大丈夫だねとなったら、xの中身について検討し、なるほど、ここが根本的相違なんだねと納得し、それなら、結論として、AとBというように食い違うのも納得だねとなることが議論の本来である。ただそれだけのことである。