プレと素朴唯物論とトランス 言語はプレの記述のためにあるからトランスについては沈黙するだけである
話の内容としてはずいぶん古いことなので周知のことであるし、わざわざ書くのもためらわれるが、自分で表現することが大切だと思うので書く。
宗教観念や宗教体験のプレとトランスの錯誤についてである。
一般に、人間の平均的な宗教体験としては、神秘体験や超越体験は話に聞くだけで自分の経験としてはない人が多い。したがって、日常体験でいう神様とか祈りとかについても、アニミズム的、シャーマン的、現世利益的な観念が多い。これがプレの段階である。
文化が洗練されてきて頭がよくなってくると、それらのものは少し頭が悪い考えだと思うようになる。そして素朴唯物論的な立場に接近する。神は人間の脳が作り出したお話である。サンタクロースと同じである。いい大人が神についてまじめに論じるのもどうかしていると思う。これが現在である。
現代では完全な素朴唯物論に到達している人はまだ少数であり、アニミズム的、シャーマン的、現世利益的な観念を有している人が大半である。
しかし少数であるが、素朴唯物論を超えて、超越体験や神秘体験をして、神を実感する人がいる。これがトランスの段階である。
われわれの日常言語はプレの段階のものをまだ使用しているので、素朴唯物論を記述するのにも苦労する。ましてや、真の神秘体験や超越体験を記述することは不可能である。比喩的に語るしかない。言葉としては神とか超越とか神秘などというしかない。するとプレの人の語る言葉と同じになり、意味内容も同じだろうと解釈されてしまう。
しかもその比喩を聞いて、プレの段階の人が、それは私も体験したことだなどと言い始める。プレの人には、トランスとプレの違いは原理的に判らないはずである。
また、素朴唯物論の段階の人にも、プレとトランスの違いは判らないはずである。
ただ、プレの人は、素朴唯物論の議論も理解していないので、素朴唯物論の段階の人は、プレの人がプレだと理解することはできる。自分は霊感が強いとか言っているのがプレの人である。日本なら神社仏閣で何かをしたりしている。西洋ならまたそれなりに伝統的な施設がある。
しかし素朴唯物論の人は、トランスの人とプレの人を明確に区別して理解することはできないだろうと思う。ただ状況証拠として、トランスの人は、素朴唯物論の人たちのできることは何でもできるし、一般の事象に対しての理解も素朴唯物論の人たちを超えていることはわかるので、この人はすごく能力は高いのに、神秘体験の部分だけはプレの人と一緒なんだなと理解して、ここでプレとトランスの錯誤が起こる。
言語体系として、プレの体験しか記述できないので仕方がない。トランスの体験を記述するとプレの内容だと誤解されてしまう。その誤解を解くことは難しいし、トランスした立場にいる人が、積極的にトランスの経験を記述することなど、不必要なことであるという事情もある。
体験したことのない人には説明してもわからないのだし、体験した人には説明の必要がない。
トランスの立場を利用して生活のためのお金を稼ぐなら、説明の必要も生じるだろうが、トランスの立場にある人はそんなことをしなくても、日常生活の中できちんと稼いでいけるから、わざわざ誤解されるようなことをする必要がない。
何か神秘的なことをやって見せて語って見せて商売にしてプレの人たちからお金を集めようとするのはプレの人である。トランスの人にはそのような動機はない。現世の利益よりも大切なものに触れているのだから。
誤解を招くといけないので付け加えると、私は個人的にはトランスの人ではなくて、素朴唯物論の人である。
ただ、原理的に考えて、プレとトランスの錯誤があるだろうし、そこは注意しないといけないと思っているのでこうして書いている。
これは言語の限界の問題であり、ウィトゲンシュタインが提示したように、語りえないものについては沈黙すべきなのだ。言葉がないから比喩的に語っているだけである。
人類がこの先進歩して、トランス体験を多くの人が共有するようになれば、それにふさわしい言葉が、プレの体験とは独立して成立するだろう。その時まで、それは語りえぬもののままである。そしてそれをあえて語ろうとするもの、語ることができるとするものは、偽物である。
トランスの人は他人がプレでも素朴唯物論でもトランスでも、特に関心もないだろう。説明する動機もない。だから言葉もない。自分の内側で満足していればいいのである。
ただ、いつまでも満足できない人はプレなんだろうなと推定はできる。トランスの人は足るを知る。
また、老子が、本当の道は普通の言葉でいう道ではない、本当の名は普通の言葉でいう名ではないという。普通の言葉でいう道とか普通の言葉でいう名とは、プレの次元のことである。そして、本当の道とか本当の名とは、トランスの次元のことである。だから言葉で語りえぬことがあるのだ、そして原理的に、それを名指しすることはできないという。
孔子は、その事情は認めつつ、国家の運営にはトランスは関係ない、プレの人たちをどのようにまとめていくかが仕事なのだと割り切って、トランスについては語らずとした。
仏教的に言えば、解脱できず輪廻を繰り返しているのはプレである。トランスすれば解脱である。小乗の立場としてはそれでよい。大乗の立場になると、トランスの人がプレの人を救うというので、いろいろ怪しいことになる。これはプレの国家指導者がブレの人民を支配するための道具として便利と考えただけだろう。民衆は大仏様の前で富と病気平癒を願っただけで、トランスの立場など関心がなかったはずである。トランスの人がプレの衆生を救おうと思ったか、よくわからない。無理して救ってもよくないだろうと思うがどうだろう。
キリスト教の世界でも同様である。言語はプレの世界を記述するだけである。修道院の中にも、一般社会の中にも、トランスの人はいただろうが、それぞれ自足して幸せに暮らしただろう。