知性と感情
私の考える議論の理想形は、まず何について結論を出すのか、明確にすることだ。次にその議論のために必要な前提条件となるものを明確にする。たとえば現状認識とか価値観の選択とかである。そこまで来たら後は論理計算があるだけである。ロジックマシンが動いてくれればそれでよい。
問題なのは、暗黙の裡に結論を先取りして、現状認識の部分でも価値選択の部分でも、安易に認識を移動させてしまうことである。
自分のたどり着きたい結論に有利なように前提条件を選んでしまう。これが人間の弱いところだ。
勝ちたいとか自分の主張を認めさせたいとかの感情が先にたって、知性に徹することができない。
たとえば、あらかじめ、論点を明確にせず、前提となる現状認識や価値選択を100項目くらい登録してもらう。そのあとで、論点を明確にして、前提から論理演算して結論を出す。こうした理想状況を考えるが、まったく現実的ではない。自分が勝つためならば知性に反して前提条件を動かしてしまう。感情によりと言えばいい部分もあるし、または、深層心理によりと言えばいい部分もあるのだろう。
人間の脳の知性演算部分はそんなに大きな領域ではなく、進化論的にも新しいものだ。感情部分が大きな領域だし進化論的にも古いものだ。だから強力だし根底的である。
たとえば、ある事柄について関係者が集まって議論しているとする。お互いに大人であるから礼節はあるものの、その場面では脳は知性演算装置ではない。むしろ、集団内力学に敏感であったり、感情に影響されたりする。
権威に弱いのは誰もが経験があるだろう。だからそれぞれの人は権威になりたくて自分のリソースを注ぎ込む。群生する生物としては集団内力学に従うことが生存可能性を高めることなので、権威に従うとか、実績のある者に従うのは本能である。
また、集団内の感情が個人を支配する。それはたとえば演劇とかコンサートとか宗教的儀式、政治集会などで見られるのが典型的であるが、集団的熱狂は個人の感情を一方向に染める。そのような集団は他の集団と闘争するときに強いだろう。これも本能である。集団的熱狂の中にあって一人だけ冷静でいるのは進化論的に言うと生存戦略として劣るところがある。個人として自分の感情をはっきり持つことが明治維新以降の目標であったが、勿論、そんなことは達成できていないし、西洋にあるかといえば、たぶんないと思われる。感情feelといえば一時的な感じが強い。情緒emotionとか気分moodといえば、ある程度持続的なものだ。感情に支配されるのがはっきりわかるのは集団的熱狂の場面であるが、そこを頂点として、感情、情緒、気分も集団に支配されている。
人間は権威に弱いことが分かっているから、マスコミでは権威を作り出し、その人たちに、ある勢力に都合のいいことを言わせる。都合のいいことを言わない場合は、編集権と称して、改変してしまう。
人間は一時の熱狂に弱いから、マスコミは感情を圧倒するような場面を作り出す。それを国民は好む。
権力側の意図も作戦も分かっているのに、操られる。それは一言で言って、お金がないと人を動かせないからだ。拝金主義でもないし、敗北主義でもないが、お金があれば権威も作り出せるし、集団的熱狂も作り出せる。
第二次世界大戦を連合国側からファシズム側を批評すればそのような言い方になる。
そのような感情操作状況を抜け出して客観的な観察をするのは困難である。それが人間の脳の特性だから仕方がない。それで滅びても、基本設計の失敗なのだから仕方がないと思う。
知性は発達して科学技術は蓄積されたが感情は古いままである。言い換えれば、知性の面では、我々はアインシュタインの成果の上にさらに一歩を進めることができる。しかし感情の面ではサルと変わりはないレベルであり、個体として成熟するが、その成熟を科学技術のように世代間で引き継ぐことができない。
だから、量子力学の研究者が不倫問題で躓いたりするのである。そんなにも頭のいい人が、そんなにも古代から続く感情問題で躓くのである。
感情に流されるのは、たとえば議論を観察していると、次第に極端で単純な、しかし感情的に集団にアピールする意見が優位になってゆく様子がわかる。それは理性が負けて、感情が勝つ状況である。それも本能だから仕方がないような気もする。個人的には注意もしているが諦めもある。しかしまあ、諦めないで努力しよう。
しかし一方で人間の知性には限界がある。完璧ではない。間違うことがある。だから知性を信じ切ってもいけない。
ここまでくると本当に難しい。手探りで一歩一歩進むしかない。