認知症でも意識障害でも生きている価値はある 世界を体験している可能性はある 魂と意識とすりガラス
自意識のメカニズムが明確に理解されていない以上、いろいろな可能性を考えることは許されている。素朴唯物論的または見込み唯物面的観点からは、意識の問題もそのうち、神経細胞の複雑な働きの結果として、自然科学的に解明されるだろうと主張されているのだが、それを信じるのは、実際にそのような説明が明確に可能になってからでよい。現時点では説明不可能である。
素朴な体験として、重度の認知症の人に接して、いろいろな感慨を抱くものだ。不可逆な脳機能の混濁を目の前にして、われわれはそれに対してどのような態度を取るのが良いのか。
魂は脳というすりガラスを通して世界を認識していると考えたらどうか。すりガラスが曇ったとしても、また完全に不透明になったとしても、魂は何らかの方法で世界を認識している可能性はある。
従って、我々は、すりガラスである脳の機能を見るばかりではなく、その奥に存在している魂のことを考えたほうが良い。
そうすれば、意識障害でも認知症でも、知的障害でも、人間として正しく対応できるのではないか。
これは間違っているかもしれないが、間違っていたとしても、失う物はない。認識が間違っていたとしても、人間として正しく対応したほうがよいだろう。
もし、脳が壊れたらそれで人間はおしまいだと考えて行動し、それが間違っていた場合を考えると、失われるものは大きい。
単純なイメージとしては、魂があって、人体を通して、世界を経験していると考える。魂って何ですかという話になると思うが、それはそれぞれのイメージでよいと思う。なにしろ実証できないものだ。人間の観念があるだけで対応する実体はないかもしれない。それはいろいろな可能性があり、まだ決着していない。
感覚するときは五感を通して感覚する。それ以外もあるかもしれない。それは可能性の話だが、可能性としてはある。また、言葉を発するときや運動するときは運動神経を通じて身体を動かす。可能性としては、運動神経を通じて以外にも、経路はあるのかもしれない。それも可能性の話である。
そうした働きをしている人体が何かで故障したときにどうなるか。たとえば不可逆的な意識障害が起こればどうなるか。
そのとき、意識が混濁しても、魂が世界を体験し続けていると考えてもよい可能性はある。
この人はもう何も感覚していないと考えない。何も体験していないと考えない。
身体に障害が発生したとしても、魂は存在していて世界を体験している。そのことを信じただけで、人間は正しく行動できる。
そう考えて、結果として正しく行動できるなら、そう考えたほうが良いのではないか。
人間として正しい行動とは何かという議論はまた別の話だ。
個人的な感覚として、そのほうが気分が良い。思考も行動もすっきりするのである。そのほうがいいのではないかという提案である。
脳に話しかけるのではなく、魂に話しかける。