言葉が指し示す向こうのものと言葉自体
私たちが文章を読むとき、言葉そのものの持つ、熟した感じとかごつごつした感じとか、熱と枯れた様子とかを感じる側面と、言葉が指し示す・言葉が対応する現実物についての情報を取得することの二つがある。
たとえば、食べ物でいえば、食べ物そのものの味を味わうことと、食べ物によって得られる健康上の利得がある。
性行為でいえば、親愛を確認するための行為の側面もあるが、妊娠という目的のための行為でもある。
マインドフルネスの場合でいえば、行為そのものを味わう態度である。行為の目的や結果を問題にするのではない。
言葉が指し示す現実の対応物が問題なのではなく、言葉自体の響きや字の形、また言葉の歴史とか付随するイメージとか、そのようなもの。
言葉が書かれた物語を映画にすることはできるだろうけれども、その時に失われるものがある。
物語は翻訳で大体の意味は伝わる。しかし翻訳で失われるものがある。
それが言葉自体の持つ響きであり形である。
詩や小説の言葉は、映像や現実物の代わりのものではない。詩や小説を映像にすれば失われるもの、それが詩と小説の最も大切な部分である。
詩や文章で主張される「内容」や「思想」が大切なこともあり、それはもちろんであるが、それだけでは詩でも小説でもない、その場合は、ほかの媒体でも可能であることが詩や小説でも可能であるにすぎない。
つまり、詩や小説は、出来事の影ではなく、出来事そのものだということである。対応する実体がある場合に、それを代理しているものではない。それ自体がごつごつした実体なのである。
机の机らしさをしみじみと味わうことが、感覚することなのだと私は繰り返して主張している。
普段ならば、いつもの机はいつものようにニュートラルに机であり、机らしさをことさらに主張することはない。
しかしわれわれの意識がある種の質の時には、机の机らしさが突出して感じられる。
逆に、ある時は、机の机らしさが消失してしまい、耐えられない感覚になる。
精神医学の用語でいう離人感や過剰相貌化の周辺のことである。
この説明でいえば、詩や小説は、言葉の言葉らしさが、机の机らしさと同じように突出している様子を、しみじみと味わうことである。