精神症状の構造を考えてみましょう。
うつ病の症状として、憂うつ、億劫さ、決断できない、不眠、食欲変動、死にたいなどいろいろ並んでいますが、それぞれは独立のものか、原因は一つでそれぞれが現れるとしたら、因果関係はどうか、時間の順番はあるのか、そのあたりに関心が向くでしょう。
憂うつだから死にたいのだろう。でも億劫だから死なないのだろう。決断できないから死なないのではないか。そうではなくて死にたい衝動の薄いものを憂うつと感覚しているのではないかなど。精神エネルギーの低下で説明できるのではないか。精神エネルギーの低下ならば無気力などが中心になるはずだ。自分の状態を意識するエネルギーも低下して自分の状態に興味がなくなるのではないか。などなど、言葉で考えると色々です。本当は神経細胞について考えたいのですが。
おおむねで言えば、最初に現れた症状が、原発性の症状である可能性があり、そのあとに現れる症状は、最初に起こった症状に対しての生体の反応である可能性があります。もちろん、一つの原因から、二つの症状が時間差で現れることもあるでしょうが、その順番や必要とする時間などを考えれば、症状のメカニズムを推定する手掛かりになるはずでしょう。
原因の発病性が弱いとすれば、第二、第三の症状は出現しないで、終わってしまうかもしれません。あるいは、原因がある程度強力であっても、薬物療法で病状の進展を抑制することができたなら、最初の症状だけで終わるかもしれません。
また可能性としては、出現している全部の精神症状が、原因に対する生体の反応であることも考える必要があるかもしれません。
たとえば、甲状腺機能低下症や男性ホルモン低下状態を考えてみると、甲状腺や性腺(精線)に問題が生じるわけですが、生体は甲状腺ホルモン刺激ホルモン増大や性腺刺激ホルモン増大で反応します。したがって、観察される症状は、それらの複合になるはずです。また、治療として甲状腺ホルモンや男性ホルモンを補ったとすれば、今度は甲状腺刺激ホルモンや性腺刺激ホルモンが抑制されることもあるかもしれません。そうするとそのことによる症状も混合しているのだと意識して観察する必要があります。
パーキンソン病のような神経の変性疾患では、関連する全部の神経細胞が一度に病気になるわけではなくて、時間経過にしたがって徐々に広範囲に拡大する傾向があります。症状はそれに従って、例えば、右手、右足、左手、左足と進行するなどと観察されます。人によって違うのですが、傾向としては、片側上肢、同側下肢、対側上肢、その同側下肢が多いなどと昔は言われていました。そうした症状の進行と、脳内の病変の進行は対応したものであるはずでしょう。
このような観点からうつ病や躁うつ病のいろいろな症状を統一的に解釈することはできないかと考えるわけです。
昔は、睡眠に着目した人がいました。うつ病の場合、睡眠障害はほぼ必発で、しかも病気の始まりに見られるので、なにかうつ病の原因と深くかかわっているのではないかというわけです。
何か気にかかることがあると睡眠が乱れることは多くの人が体験するところでしょう。歯が痛くても胃が痛くてもよく眠れないことはあります。時差ぼけの変な感じも分かるでしょう。不思議な夢を見た後の変な気分もあります。眠りすぎてしまった時の変な感じも分かるでしょう。
そう考えると、不明の原因からうつ病が生じるとして、直接うつ病になるのではなく、途中の段階として睡眠障害があるのではないかとの考えは可能であるような気もします。
断眠実験などで睡眠が足りないと人間はどうなるかなどの昔々の話もあるでしょう。たとえば、子供がうつ病になるとは普通考えないのですが、それは子供はよく眠るからだとも考えられます。こんな仮説が下敷きとなって、治療にあたってはとりあえず睡眠を確保しましょうという方針もある程度納得できることです。
しかしそれとは別に、睡眠に必要な要素はたくさんあって、そのどれが欠けても不眠や過眠になる、そのような非常に壊れやすいもの(Fragile)だと考えれば、他の症状よりも先に出現することも説明できます。並列と直列の違いのようなものです。睡眠に必要な要素は直列に接続されているので、どれか一つ欠けても、症状が出てしまう。また、憂うつとか億劫だとの精神症状は、睡眠ほど敏感な指標ではないことも考えられます。たとえば、自殺したいと思うことなどは、脳内に自殺を止めている細胞があって、それが機能停止とすると自殺したくなるとかのように、基本的で要素的なものとは考えられません。もう少し複雑で高次の脳機能ではないでしょうか。それに比較して睡眠や食欲は生物にとって基本的な要素であり、睡眠中枢とか食欲中枢は、脳の古い部分に位置し、しかも、高次の脳と深く関係しています。憂うつの正体などは難しいのですが、少なくとも、睡眠や食欲、性欲のように基本的で進化的に古いものとは考えられず、より高次で、進化的に新しいものでしょう。
憂うつとか億劫とか死にたいという気持ちは、自意識が成立して初めて自覚することができるものです。動物実験で憂うつをどのように観察しているかを考えてみましょう。自意識の成立前の動物では、疲れやすくなるとか、新奇なものに興味を示さないとか、学習が遅いとか、そのようなところを目印にして観察者は記録しています。しかしそれは憂うつや億劫という気持ちがあるのかどうかとは完全には一致しないでしよう。あるいは、人間は、自分が疲れやすいことを、憂うつだと解釈して表現しているのかもしれないとか、そのような可能性もあります。
人間の場合、「私の気分は憂うつだ」と日本語で言ったとして、それが実際何を意味しているのかは、確実な証拠はありません。一応、みんな同じようにに感じているんだろうと、自分の主観的な体験をあてはめて類推しているだけです。さらに言語が異なれば、意味内容は違ってきます。depressiveとかblueとかgreyとか。ドイツではschwermutというと重たい気分で憂うつということですね。tristeだと悲しいです。だいたい同じ方向のことらしく、大きくは違っていないので、やはり人間にうつ状態は普遍的にみられるものでしょうか。
何かの言語を調べて、ある方面の語彙が多いか少ないかと時々問題になります。たとえば日本語だとヨーロッパ諸国の言語に比較して雨に関係する語彙がとても多い。逆にヨーロッパでは、牧畜に由来する言葉がとても多い。言葉の分解能というか、微小な区別ができるかどうか、それともおおざっぱにいうのかの違い。日本語だと椅子というところを、さまざまな椅子に即して言い分けるとかがよく言われます。ひょっとしたら、さまざまな憂うつについて細かな違いを使い分ける言語もあるのかもしれません。たとえば極端な空想をすると、親が死んだときの悲しみを表現する言葉、子供が死んだときの悲しみを表現する言葉、家畜が死んだとき、夫が死んだとき、妻が死んだとき、さらには長男が死んだときに母親が感じる悲しみを表現する決まった表現があってもいいと思います。しかし似たようなものだということで、悲しいとか憂うつだとかの言葉でまとめているのでしょう。心が張り裂けそうだとか、涙が止まらないとか、体の反応を語る言葉も多くあります。自意識が自分の内面を観察して表現する言葉よりも分かりやすいと思います。涙が止まらないというのは外側からも分かりやすいことですから、他者へのアピールとして涙が使われることもあります。こうなると、神経細胞からできている脳のことを考えているのか、言葉を考えているのかという問題になり、不毛な地帯に位置していることが分かりますから、胃が痛くなり、めまいがして、頭が痛くなります。(つづく)