特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか
2023.03.11
※『世界』2023年3月号収録の記事を、増補改訂のうえ特別公開します
はじめに
ネット上の匿名掲示板サイト「2ちゃんねる」(現在は「5ちゃんねる」)の創設者、ひろゆき、こと西村博之が人気を博している。
1999年5月にスタートした2ちゃんねるのほか、2007年1月にスタートしたニコニコ動画など、ネットの普及期にいくつかのサービスの立ち上げに関わり、起業家として成功した彼は、2010年代後半からユーチューバーとして活動し、視聴者からの相談に答えるライブ配信番組を通じて人気を博した。さらにその間、ビジネス書や自己啓発書を次々と出版し、ベストセラーライターとして名を馳せるかたわら、テレビ番組にコメンテーターとして出演するなど、マスメディアでも広く活躍するようになる。
その人気はとくに若い世代に顕著で、若者や青少年を対象とする調査では、憧れる人物などとして頻繁にその名が挙げられるほどだ。その配信番組でも、スーパーチャットと呼ばれる投げ銭機能を用いて有料の相談を受けようとする者があとを絶たない。今やその存在はネット上のインフルエンサーの域を超え、若い世代のオピニオンリーダー、それもカリスマ的なそれとして広く認知されていると言えるだろう。
しかしその一方で、その振る舞いや発言が物議をかもすことも多い。2ちゃんねるの管理人時代に誹謗中傷の書き込みに対処することを怠ったため、多くの訴訟を起こされ、多額の損害賠償を請求されているにもかかわらず、裁判所に出頭せず、「踏み倒し」を続けていることから、その倫理観の欠如を指摘する声も多い。
また、2022年10月には沖縄県名護市辺野古を訪れ、米軍基地建設反対運動を中傷するツイートを投稿したことから、大きな社会問題となった。市民運動を小馬鹿にしたようなその態度にリベラル派は一斉に反発し、批判の論陣を張ったが、しかし彼が態度を改めることはなかった。
こうしたことから彼は、良識派、とりわけリベラル派のメディアや知識人などからすこぶる評判が悪い。その倫理観の欠如や政治思想の浅はかさなどの点ばかりでなく、「冷笑」と呼ばれる、人を小馬鹿にしたようなからかい方や、「論破」と呼ばれる、揚げ足取りまがいのディベート術など、その独特の態度が批判の対象とされることが多い。
しかし彼自身はそうした批判を意に介することもなく、面白おかしくリベラル派を冷笑し、論破し続ける。するとその支持者は彼のそうした態度に一斉に喝采を送り、彼にならってリベラル派に反駁する。辺野古のツイートには多くの批判があったにもかかわらず、28万もの「いいね」が付けられ、彼の人気を一段と高めることになった。
こうした「ひろゆき人気」の背後には何があるのだろうか。
プログラミング思考で権威に切り込む
現在のひろゆきの活動の基軸となっているのは、とくに若い世代に向けて生き方や考え方の指南をすることだろう。しかし通常の論者のように、そこで彼は努力の大切さなどを説くわけでは毛頭ない。逆に「1%の努力」で「ラクしてうまくいく生き方」、そのための「ずるい問題解決の技術」や「人生の抜け道」を示そうとする。そこでは「全部うまくいくサボり方の極意」として、「パクる・逃げる・丸投げする」ことなどが推奨される(文献2、3、6、9)。
こうした考え方はいわゆる逆張りとして、「努力しても報われない」と感じることの多い若者などには魅力的に映るものだろうが、しかしそれだけで彼が支持されているとも思われない。そこには単なる逆張り以上の、より具体的な説得力があるのではないだろうか。
彼は自らを「プログラミングというスキルを持つ実業家」と規定している。そうした観点からすると、「パクる・逃げる・丸投げする」ことは単なる「サボり方」ではなく、むしろ有効な「問題解決の技術」ということになる。プログラマーや実業家からすれば、他者の優れたソースコードやビジネスモデルを真似ること、効率の悪いプロジェクトから撤退すること、開発や運営をアウトソーシングすることなどは当然のことだからだ(文献3、4)。
彼によれば今日、「世界のトップ層」は彼と同様の「プログラマー出身者」で占められているという。イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグなどのIT起業家たちだ。
そうした状況になっているのは、「プログラミングを身につけることで副産物的に得られ」る能力が、プログラミング以外の領域でもさまざまに役立つからであり、それが彼らの成功の一因となっているという。
そうした能力とは、「論理的思考力、創造性、問題解決能力」などだが、より具体的には、「情報整理術、俯瞰で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレーション力、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術」などだという(文献10)。
これらの能力を駆使し、いわばプログラミング思考に基づいて生き方や考え方を改善するよう勧めることが、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう。言いかえればそれは、「プログラマーとして世界を見る」という態度を指南することだ。
そこでは世界を、いわばデータとアルゴリズムから成り立つものとして見ることが目指される。そのためとりわけ、データとして数値化された事実性と、アルゴリズムとして図式化された論理性が重視される。その結果、それらに準拠せずに行われる議論は、「それってあなたの感想ですよね」と「論破」されてしまう。
こうした思考法は今日、彼に限らず、とくに若い世代のオピニオンリーダーとして活躍している何人かの論者に特徴的に見られるものだろう。堀江貴文、落合陽一、成田悠輔などだ。彼らはいずれもプログラマーや実業家としての素養を持ち、ある種のプログラミング思考を通じて社会を論評することで人気を博している。彼もそうした中の一人として位置付けられるだろう。
だとすれば彼の逆張りは、単なる良識へのそれではない。文系的な、とりわけ人文的な、これまでの日本の知のあり方へのオルタナティブであり、さらに言えばそのヘゲモニーへの異議申し立てだと見ることができるだろう。
そこでは従来のメディアや知識人などの言説が、どこか権威主義的な、それでいてさしたる根拠もないものとして提示され、それとの対比で新種のプログラミング思考が、より実証的で実効的なものとして持ち出される。
そこに新しさを感じ、いわば斜め下から権威に切り込むようなその姿勢に反権威主義的なカッコよさを見ることが、人々が彼を支持する理由の一つとなっているのではないだろうか。
ライフハックによる自己改造と社会批判
プログラミング思考に基づいて生き方や考え方を改善しようとするひろゆきの発想は、「ライフハック」と呼ばれる手法に特有のものでもある。ITを使いこなすためのちょっとしたコツやテクニックを日常生活に応用し、仕事や日々の暮らしを効率よく営もうとする考え方で、2000年代半ば以降、IT業界を中心に広まってきたものだ。
そこではアプリケーションやデジタル機器の活用術の応用として、さまざまな「仕事術」や「生活術」が考案されるが、そのためのコツやテクニックは「裏ワザ」「ショートカット」などと呼ばれることが多い。
彼はその提言の中で、「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」などという言い方をしばしば用いる(文献6、3)。そうした言い方は、その不真面目な印象のゆえに物議をかもすことも多いが、しかしこの点もやはり単なる逆張りではなく、ましてや彼の倫理観の欠如を示すものでもなく、むしろ「裏ワザ」「ショートカット」などの言い方に通じるものであり、ライフハックの流儀に沿ったものだと見ることができるだろう。
ただし彼のライフハックは、一般のそれとはずいぶん異なるものだ。一般のそれが日常生活の細々とした営みを改良しようとするものであるのに対して、彼のそれは、生き方や考え方の根幹を改造しようとするものであり、社会全体の成り立ちを批判しようとするものでもある。つまり自己改造と社会批判という二つのラディカルな論点を、ライフハックという軽妙な手法で同時に扱おうとするものだ。
これら二つの論点をうまく噛み合わせることで、彼のライフハックはその支持者に独特の効果をもたらすことになる。
まず自己改造という点では、あたかもアプリケーションを効率化するかのごとく、ちょっとしたコツやテクニックで生き方や考え方を改善することが可能だという印象、いわば人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚が与えられる。
一方で社会批判という点では、高度にデジタル化されたIT業界から捉えられた社会像が、いつまでもアナログ体質なままの日本社会の現実と対比されるため、その古さや非効率性が強調され、いわば日本は「オワコン」だという断定が与えられる。
その結果、「(日本の未来は暗いけど)あなたの未来は明るい」という診断がもたらされることになる(文献5)。そのため彼の支持者は、「日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる」という思い込みを抱くようになる。
そうした思い込みは、もろもろの不満や不安を抱える者にとってはどこか心地よいものだろう。一方では「オワコン」の日本を「ディスる」ことで、社会への憤懣を安直に晴らすことができ、他方では自己改造の可能性を信じることで、自己への承認を安直に満たすことができるからだ。
つまり自分がこれまでうまくいかなかったのは、このどうしようもない社会のせいだが、しかし便利なショートカットキーが見つかったので、これからはうまくいくだろうというわけだ。
こうした安直な思い込みが広く受け入れられてしまうのは、「いつまでも変われない日本」への苛立ちが、とくに若い世代の間に広がっているからだろう。「自分だけはいつでも変われる」と思い込むことの中にしか希望が見つからないほど、彼らの展望は閉ざされているのではないだろうか。
「ダメな人」のための「優しいネオリベ」
ここであらためて考えてみよう。「日本の未来は暗い」にもかかわらず、なぜひろゆきは「あなたの未来は明るい」と言うことができるのだろうか。通常の考え方では日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない。
彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制で、「みんながトクする」という構造を大事にしてきた。しかし昨今ではとくにIT産業に見られるように、「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」というビジネスモデルが増え、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。
だからこそ、「日本が「オワコン化」しても大丈夫」だと彼は断じる。「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから(文献1)。
ここに見られるのは、ネオリベラリズム、もしくはリバタリアニズムに特有の考え方だと言えるだろう。公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ。
そもそも彼は成功した起業家であり、さらにマスクやベゾズなど、桁外れの大富豪の名をしばしば挙げていることからも窺われるように、ネオリベラルな考え方の持ち主であることは、とくに不思議なことではない。
では彼は典型的なネオリベラルなのだろうか。実はそうではない。その議論には、むしろそこからはみ出るようなところが多く見られる。
一般にネオリベラリズムとは「弱肉強食の論理」だとされる。とりわけIT業界ではいわゆるネットワーク経済の法則から、”winner-take-all”、すなわち勝者総取りの原理が働き、強者はどこまでも強くなっていく。
そうした世界でネオリベラルな論者であろうとすれば、その視線は強者に向けられるのが普通だろう。しかし彼の議論は、むしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば「ダメな人」に向けられることが多い。
たとえば「コミュ障」「ひきこもり」「なまけもの」などがその代表格だが、さらに彼が生まれ育った東京・赤羽の団地には、「社会の底辺と呼ばれる人たち」がたくさんいたという。「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」「ニート」「うつ病の人」などだ(文献2、5、4)。
昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要はない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスを摑む人」になるべきだと彼は言う(文献6、2)。
というのもこれまでの日本では、「ダメな人」は「横並び」の体制についていくことができなかったが、しかし昨今では、「会社で働けないタイプの人」でも「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」ことが可能になったため、プログラマーやクリエイターとして成功することができる。実際に彼自身も「コミュ障」だったが、「プログラミングという武器がある」ことでうまくいったという(文献1、6、8、3)。
だからこそ彼はそうした人々に、プログラミング思考によるライフハックを勧めるのだろう。マスクやベゾズの名を挙げてはいるものの、彼にとってのその本質は、むしろ「自分の人生は自分で守る時代」の「弱者の生存方法」なのだろう(文献2)。
そうした見方からすると、デジタル化によって駆動される今日のネオリベラリズムは、決して過酷なだけのものではなく、とくに「ダメな人」にとってはむしろ優しいもの、その「生きづらさ」を減じてくれるものということになる。たとえ「子ども部屋おじさん」や「ニート」だろうと、ちょっとした副業のノウハウさえつかめば、それなりに稼ぐことができ、社会参加が可能になるからだ。
たとえばさまざまなクラウドソーシング業務のほか、アフィリエイトビジネスから株式投資に至るまで、やり方はいくらでもある。うまくいけばそこから起業したり、デイトレーダーとして一攫千金をねらったりすることも可能だろう。そうした可能性に目を向けることで「チャンスを摑む人」になるよう勧めることが、ある種の逆転の発想として、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう。
こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し、「ダメな人」のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは「弱肉強食の論理」を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ。
今日、ネオリベラリズムの強力な論理の中に否応なく巻き込まれ、それに適応せざるをえなくなっている人々は、それを「強者の論理」から「弱者の論理」へとこうして優しく転倒してくれる彼の議論、いわば「優しいネオリベ」という考え方に、慰めや励ましを感じ取っているのではないだろうか。
なぜリベラル派を嫌うのか
ではそれは、なぜ「ダメな人のためのネオリベラリズム」であり、「リベラリズム」ではないのだろうか。本来はむしろリベラリズムこそが「弱者の論理」として持ち出されるべきものだろう。それなのにひろゆきは、そしてその支持者はリベラル派を嫌い、さまざまな局面でその立場に反対している。それはなぜなのだろうか。
その背景にあるのは、とくに「弱者観」の違いという問題だろう。弱者とは誰か、そしてどうあるべきかという見方に関わる問題だ。それぞれについて考えてみよう。
まず弱者とは誰かという点では、一般にリベラル派は、とくに二つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる。その一つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象者として、高齢者、障害者、失業者などが想定されている。もう一つは近年のアイデンティティポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティに関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、在日外国人などが想定されている。
加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含まれることになった。
これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない。「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などだ。そうした人々は、リベラル派のプログラムでは救済されることがないと考えてしまいがちだ。そのため、それに従っても意味がないと思ってしまうのだろう。
次に弱者とはどうあるべきかという点では、一般にリベラル派は、とくにマルクス主義の伝統に親和的な見方をしてきたように思われる。弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団として権利を主張しなければならないとする見方だ。
こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこでは弱者が、もっぱら搾り取られる側の存在として規定されているからだ。また、そもそも「横並び」が苦手な「ダメな人」たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう。
一方で彼の議論では、逆に各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのやり方も教えてくれる。だとすれば、集団としての権利よりも個人としての利益を得るために立ち上がるほうが、やる気も出るし、現実的だということになる。
こうしたことから「ダメな人」は、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。
しかしリベラル派はそうした見方にこだわり、自らの「弱者リスト」の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で彼らは分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか。
そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家という体制そのものに疑義を呈する。その結果、「大きな政府」を否定し、ネオリベラリズムを支持することになる。こうした考え方が、「ダメな人のためのネオリベラリズム」を支える一つの政治思想となっているのだろう。
そこではリベラリズムが、彼らにとっての「弱者の論理」としてほとんど機能していないことがわかるだろう。それどころかそれは、特定の「弱者の論理」を押し付けてくるという意味で、むしろ「強者の論理」なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか。
しかもそこで提示される弱者、つまりリベラル派の「弱者リスト」の構成員は、そうした「強者の論理」に守られている以上、もはや「真の弱者」ではなく「偽の弱者」なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が「真の弱者」なのだから。
こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての彼らの階級闘争となるからだ。
たとえば辺野古をめぐる騒動のきっかけとなったのは、米軍基地建設反対運動の現場で、「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と彼がツイートしたことだった。彼がそうした行動に出たのは、リベラル派の「弱者リスト」に含まれる戦争被害者としての沖縄の人々が、運動するポーズを取っているだけの「偽の弱者」にすぎないという見解を示したかったからだろう。
その後、リベラル派との間で論戦が繰り広げられ、さまざまな事実を突き付けられたにもかかわらず、彼は断固として態度を変えようとしなかった。彼がそうした行動を取ったのは、特定の「弱者の論理」をあくまでも押し通そうとするリベラル派の「強者の論理」に、あくまでも対抗するという姿勢を示したかったからだろう。
それらの行動はいずれも、彼に「いいね」を贈った28万もの「真の弱者」の階級闘争が、その背後で繰り広げられていることを意識してのものだったのだろう。
情報強者の立場からのポピュリズム
こうしたひろゆきの振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。しかもリベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものでもあると言えるだろう。
実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いものだ。
しかしその支持者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。
そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでの手軽なコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される。
そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱(じょうじゃく)」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の支持者をさらに熱狂させることになる。
このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、支持者の喝采を調達することに成功している。しかしそうしたやり方は、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものなのではないだろうか。とくに二つの点から考えてみよう。
差別的な志向と陰謀論的な思考
第一に、差別的な志向の増幅という点だ。
そこでは分断に基づく憎悪が、ある種のデジタルデバイド、それも恣意的に設定されたそれに基づく「情弱」への軽蔑として提示されるため、高齢者や障害者など、より本来的な意味での弱者が差別のターゲットとされやすい。
そもそもそうした人々は、福祉の分配先として大きな位置を占めているため、憎悪を向けられやすいうえ、とくにデジタル化を無条件に是とするようなイデオロギーの中で、「情弱」への対処として差別が正当化されてしまいがちだ。
その結果、弱者の味方をしているつもりが、より本来的な意味での弱者いじめを堂々としている、しかもそのことに気付いていない、ということにもなりかねない。
そうした鈍感さが広がっていくと、高齢者や障害者に留まらず、ホームレスや生活保護受給者など、社会の「お荷物」になっていると目される人々への差別が容認され、差別的な風潮が際限なく広がってしまうことになる。
さらにその過程で、女性や在日外国人、ひいては沖縄の人々など、もろもろの経緯で差別的な地位に貶められてきた人々の思いが冷笑され、踏みにじられることにもなる。
元来、差別とは歴史的な経緯の中で作り出されてきたものであり、社会的な文脈の中に埋め込まれているものだ。歴史性や文脈性を重んじようとする人文知は、その克服のために一定の役割を果たしてきた。
そうした知が軽んじられる一方で、情報武装のための知ばかりが追い求められていくと、自らを高めるために他者を貶めるというゲームが蔓延し、差別的な風潮に歯止めがかからなくなってしまうだろう。
第二に、陰謀論的な思考の増幅という点だ。
かつて2ちゃんねるがスタートした当初、その利用者の資質についてひろゆきは、「噓は噓であると見抜ける人でないと難しい」と語っていた。そこには「情報強者」の条件が端的に示されていたと言えるだろうが、しかしこの条件を完全に満たすことのできる者など、実際には存在しないだろう。
ところが彼の支持者はそうした存在になろうと努め、何事にも騙されないよう、何でもかんでも疑ってかかるようになる。その結果、ニヒリスティックな価値相対主義の考え方に基づき、何事も信じないという態度を共有する集団ができあがってしまった。
しかし実際には彼らは、何事も信じないという考え方を疑いもせず信じ込んでいる集団にすぎない。つまり価値相対主義の立場を絶対化している集団であり、したがって本質的には「信じにくい」集団ではなく、むしろ「信じやすい」集団だということになる。
そうした集団にあっては、疑うことと信じることとの間に独特の偏りが生じる。他者から示された情報はことごとく疑いながら、一方で自らが見出した情報は盲目的に信じ込んでしまうという偏りだ。
その結果、彼らは自らに都合よく情報を加工し、ときに捏造しながら、自らが見たいように世界を見るようになる。そこからもたらされたのが、恣意的にねじ曲げられた解釈に基づく陰謀論的な言説の数々だ。
2ちゃんねると同様にやはり彼が管理人を務めていたアメリカの匿名掲示板サイト「4chan」は、危険極まりない陰謀論的な思考の温床となり、数々の過激思想や暴力犯罪を生み出したことで知られている。彼の支持者の態度はそうした場にまで広がっていったのだろう。
そうした思考を完全に抑止することは難しいだろうが、そのための一定の歯止めとなるのは、やはり人文知であり、物事の背景を歴史性や文脈性から慎重に考証しようとする態度だろう。
だとすれば、そうした知が疎んじられ、ネットでの手軽な情報の扱いだけから物事の意味が量られるようになると、陰謀論的な風潮にやはり歯止めがかからなくなってしまうだろう。
このように彼のやり方は、ともすれば差別的な志向と陰謀論的な思考に拍車をかけることで、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものだ。差別的なヘイトスピーチと陰謀論的なフェイクニュースに溢れ返っている今日のネット環境を、それはさらに悪いものにしてしまいかねないだろう。
おわりに
元来、プログラミング思考を追い求めていけば、いわゆるシステム思考に行き着くはずであり、そこではシステム論的な複雑さ、つまりさまざまな要素から成るシステム全体の複雑さをどう制御するかという点が眼目になってくるはずだ。その結果、自己や社会の複雑さに目が向けられるとともに、自らの思考法による再帰的な影響関係にも検討が加えられ、そのフィードバックと修正が行われることになるはずだ。しかし彼の思考はそうした発展性を持つものではなく、あくまでも未熟なレベルに留まっている。
また、情報知を押し広げていけば、いわゆる機械情報に加えて社会情報や生命情報など、人間の広範な営みに関わる多様な情報の体系に行き着くはずであり、そこでは人文知との架橋を通じて、歴史性や文脈性など、より包括的な次元の情報をどう処理するかという点が眼目になってくるはずだ。しかし彼の知はそうした総合性を持つものではなく、単純で生半可な、それゆえに安手のレベルに留まっている。
今日、日本社会が長く低迷を続け、一方で情報社会が飛躍的な発展を見せるなか、その狭間で多くの若者が、彼のこうした未熟なプログラミング思考、そして安手の情報知に取り込まれてしまっている。
それはもちろん憂うべきことだが、しかしそうした状況を招来してしまったことの責任の一端は、現在の日本の知のあり方にもある。新たな情報知に対して人文知はどう向き合うべきなのか、そして今日のネオリベラリズムに対してリベラリズムはどう取り組むべきなのか、それらの点が現在、あらためて問われているのではないだろうか。