精神医学が世界に何を提供してきたか
と考えてみる
例えば、マルクスの思想。その中の例えば、下部構造は上部構造を規定する。
典型的な例は、食糧生産や備蓄を始めとして、貨幣経済や税金の徴収など、
いろいろな「下部構造」の変化があり、「上部構造の変化」として、カトリックからプロテスタントへ変化した、とか、現代のアメリカ諸宗教とか、また、南米で、共産主義とキリスト教が結合した現象について、説明をしている学者がいて、話を聞いたことがある。明確でよく考えられていた。
例えば、数学。様々な学問に基本的な方法を提供する。
例えば、精神医学。世間的にはフロイトの性欲説。リビドー仮説と言ってもよい。また、それを包括しての、精神性的発達の、生物学的根拠をもとにした立論。フロイトの説と言っても、時期により、かなり大きな変化がある。取り巻きの変化も大きいのかもしれないと思う。
ここを出発点として、リビドーの代わりに、劣等感を入れてみたり、色々、結局、最初のフロイトの天才的発想をだいなしにしている。
先日、文学部の大学教授が、ある物語の構造分析に当たり、いの流行中の認知構造療法の考え方を応用しているのを見かけた。まったくアホな話である。
確かに、フロイトの説は、文学領域への応用も多くなされ、そうした試みの多くは妥当であったこともあった。
しかしだからといって、フロイトの現代版と勘違いして認知行動療法を持ってきて、昔流の応用をしてみせるのは、お笑いでしかない。
しかし、そのように、他領域の学問に方法論的影響を与えるような大きな成果は、精神医学発としては、フロイト以後、何も起こっていないと思われる。むしろ、退化していると思われる。科学主義から人文主義に変換したからかもしれない。
むしろ、精神医学の場所は、諸新興哲学の最初の実践的展開場所であったということができる。哲学で何かが流行するたびに、精神医学で、○○的精神医学と名付けられ、少し流行し、何人かを教授にし、すぐに消えていった。
実存主義的精神医学とか。そんなもの。
フロイトのような天才が再び現れ、精神医学独自の方法論を他領域の学問の方法論として使われる日がくれば、喜ばしいと思われる。
しかしそれは難しい点があって、そのようなことが実現するには、フロイト初期のように、やはり、生物学主義的であるはずだろうと思う。しかし現代では、神経そのものの研究とか、それらのネットワークの研究とかになっていて、そこからはまだ独自なものの発生の兆候も雰囲気もない。そしてそれは精神医学ではなく、神経学になってしまうはずだろう。
還元的態度で言えば、精神医学は神経学に還元されるのであるから、方向としては正しいのであるが、精神医学と神経学には、素人にはかなりの距離があるものと思われる。