とぎれとぎれの知覚要素+脳内回路=現実把握

人間の知覚は、それぞれの肉体的条件によって制限されているし、それぞれの場面での物理的な条件によっても制限されるし、また不正確になる。
例えば、各個人によって視力も異なるし、年齢によって聴覚の可聴周波数域が異なることも知られている。昼と夜では光線が違うし、雨が降っていれば臭いも違う。
すべての瞬間において意識が明瞭であるとも限らず、とぎれとぎれになることもある。うっかりしていることもある。何か考え事をしていたりする。
このように知覚情報は実際にはとぎれとぎれになっている。

不完全な知覚から、物そのものを認識する。なぜそれができるか。
不完全な知覚でも、脳が補完して、認識に至る。
それは文化とか常識とか、後天的に脳に刻まれた要素もあるし、脳内に先天的に備わっている要素もある。
暗黙に前提されている認識態度などと表現される。例えば、地面は動くはずがないとか、そんな改めて気づかされないと本人も自覚できないような暗黙の傾向や前提。

映画も実際は一秒に何コマかの静止画の連続だった。星座の認識もシロクマ座に実際にシロクマそのものの形があるわけではない。シャワーを浴びていて電話の音が空耳のように聞こえる。天井の木目の中に人の顔が見える。トイレの壁の模様を見ていると人の顔に見える。精神医学では過剰相貌化と名付けている。脳内回路が補完しすぎている。

とぎれとぎれの知覚要素+脳内回路=現実把握

ではその「とぎれとぎれの知覚要素は何か」を正確に知りたい。また、脳内回路の実質を知りたい(これは人工知能へのひとつのアプローチである)。
一つの案としては、異文化で育った別の人に同じ「とぎれとぎれの知覚」を与えれば、どのような現実把握が生まれるのか、見ればよい。

「とぎれとぎれの知覚」X+脳内回路A=現実把握XA
「とぎれとぎれの知覚」X+脳内回路B=現実把握XB
両辺を引き算すると
脳内回路A-脳内回路B=現実把握XA-現実把握XB
であり、入力刺激が同じである限り、現実把握の差は脳内回路の差であると考えられる。

とはいうものの、正確な「とぎれとぎれの知覚」を知ることも、「脳内回路」を知ることも現状ではできそうにもない。実験的に「刺激」をコントロールすることはできるが、「知覚」をコントロールすることはできない。

ここで、現象学でいう現象とは現実把握のこと。
間主観性とは知覚構造と脳内回路の共通性のこと。
現象学的還元とは「とぎれとぎれの知覚」や「脳内回路」を正確に知ろうとする試みであるが原理的に困難があると思われる。
エポケーとは脳内回路を作動させず、「とぎれとぎれの知覚」を知ろうとすること。これも実際には困難。それを知るときに必ず脳内回路が働いてしまう。
形相的還元、超越論的還元、自我論的還元、間主観的還元などいろいろな言葉があるが、気にしないでよい。要するに「とぎれとぎれの知覚」X+脳内回路A=現実把握XA を意識していれば十分である。