集団への献身 集団のために命をささげる自殺攻撃

集団への献身
甲子園で、肩が壊れてもいいから投げさせてくれと頼む投手。
集団主義の中での自己犠牲の意味はあるだろう。しかしまた、集団の圧力の中で、本音は言えない部分もある。また、本音を圧殺する洗脳的な操作もあるだろうと思う。
思い出されるのは、特攻隊、自爆テロ、自殺攻撃 suicide attack, kamikaze attack である。なぜ自分の死と引き換えに攻撃するのだろう。カミカゼ飛行士は、爆弾で飛行機を満たし、燃料は片道だけを積んで出撃したという。帰還は不可能だ。それは「翼のついた生きた爆弾」だった。そして「全期間を通じての特攻戦死者数は約四千四百人、命中率は十六・五%であった」というのである。
特攻隊員は彼らなりに死ぬ理由を書き残したりしているのだが、集団的生命のために個人的な生命を犠牲にしている。
状況としては、自殺特攻を拒否できないし、拒否しても死が待っているし、どちらにしても死ぬのである。米軍に殺されるか、日本軍に殺されるか、自分で死ぬか、いずれかしかない。
日本軍について言えば、対米戦争末期には飢餓や病気で死亡した兵士が多いとのことだ。

自殺攻撃ついては、ドイツにおける自殺攻撃、イスラム圏における自殺攻撃、オサーマ・ビン=ラーディンの発言などがあげられる。結束主義(ファシズム)のもとで、「スーパー国家」や「スーパー人種」、「スーパー宗教」に属しているというだけで、「凡人でもつかの間の栄光を垣間見ることができたから」凡人に魅力的だった。人間の貪欲さ・不正から「浄化」された理想世界実現のための自己犠牲は、凡人が英雄的気分を味わう方法となっている。彼らは快適主義下で暮らすよりも、「崇高な理想」のために、「荘厳さ」の中で死ぬことを選ぶ。全体主義政権下で暮らす人間にとっては、「英雄的な死」こそが、個人として選べた唯一自由な行動でもあった。などと解説がある。

自分がその集団に属することが自分の人生の意味にとって最重要であり、集団帰属を拒否されるのは死刑と同じであるという認識。
そこまでぎりぎりの集団帰属意識を発生させるのはやはり洗脳であると思われる。人間は、時間をかけた、組織的な、計画的な洗脳手段の中に投げ込まれると、必然的に自殺攻撃まで実行するようになるのだろう。
日本の軍隊では覚せい剤チョコレートを製造して隊員に配っていたという。また酒の中に覚せい剤を混ぜて飲ませていたという。
集団的な妄想状態やそう状態のときには、より極端な思想にけん引されるものだろう。