風景をしみじみと眺めた

朝、自分の部屋から出て建物の外に出るとき、玄関部分に、中程度の大きさの窓がある。やや暗い室内から、明るい外を眺めることになる。黄葉する気が配置されていて、秋にはそれも楽しい。春は若葉が楽しい。
室内と室外の光のコントラストがあるので、窓からの景色は絵画のように見える。朝の時間は太陽の位置から逆光になるのでそれも劇的効果を演出している。

今日は快晴で、徒歩途中の公園を歩くときも木々が美しい。黄葉した葉がきれいで、風に揺れてきらきらしている。立ち止まってしばらく眺めてみる。画家はこうしたしみじみと美しい風景を描いたりするのだろう。絵を描くのはすぐには無理だけれども、写真ならできる。一時はカメラを持ち出したし、スマホを携帯していたころにはそれで撮影したりもした。撮影するのは桜のころと黄葉のころが多かった。最近はもう見慣れた景色なのでわざわざ写真を撮影しようとも思わなかったが、今朝はなんだかとても美しく思えて、少しの間立ち止まって、日を浴びて風に揺れている木々を眺めていた。

風景がしみじみと美しいと思ったのは中学生のころ、カメラを手に入れた時だった。写真を撮影するという気分で景色を改めて眺めてみると、非常に美しかった。いま記憶にあるのは、雪景色の美しさだ。それまで見慣れた景色が急に芸術的価値のあるものになったかのようで、驚いた。カメラを向けて、どんな風に切り取って画面に収めるか考える。そんな風に景色を見ると景色それ自体の美しさがしみじみと迫ってきた。

それまで生活の一部分であり、季節ごとにいつもそこにある見慣れた景色でありながら、カメラを通してみることで、非常に美しいものになった。
もちろん、出来上がった写真はそれほど美しいものではなく、いつもの地味な景色があるだけだったけれども。

カメラのファインダーを覗いていた時、または、カメラのファインダーで覗いたらどうなるかという気持ちで景気を注意深く眺めた時、美しさがあり、世界を賛美したいような気持ちになった。プリントされた写真だと失われてしまう、なにか生き生きとしたものが、実際の景色にはあるようだった。

そんなことを思い出した。

カメラをもって旅行に出かけるときなどは、風景と出会う典型的な機会だろうと思う。私の場合は、いつもの景色だったけれども、カメラを持つことで、風景と出会った。雪の白さと輝き。粉雪だったりざらざらだったりの質感。吹雪の時。太陽に照らされて輝く様子。

今日、関東は快晴。関東の秋冬の澄み切った空は美しい。