下書き うつ病・勉強会#9 三大妄想
前章では反応性うつ状態の場合の回復過程の症状をグリーフワーク研究の観点から概観しました。
今回はうつ病の症状についてです。昔から有名なうつ病の三大妄想を説明します。軽症うつとは大分違うなということが分かると思います。
妄想というのは訂正不可能な考えのことで、現実検討(Reality testing)の障害と言うことができます。訂正機能に障害が起こっているので誰かが説明して訂正しようとしてもできません。Loss of Realiry という表現もありますが、少しあいまいです。たいていはLoss of reality testing のことです。場合によっては現実見当識(Reality orientation)の障害も含むことがあります。文脈で読み分けましょう。
統合失調症では被害妄想とか迫害妄想などがみられ、躁病では誇大妄想がみられます。
うつ病の場合は、貧困妄想、心気妄想、罪責妄想が三大妄想と言われています。
現実に反して自分は貧乏でこの先どうしようもないと思い込むのが貧困妄想です。貯金通帳に500万円と印刷されているのに、自分は貧乏になった、もう食べていくこともできないと思います。
現実に反して自分は重い病気にかかっていると思い込むのが心気妄想です。もう治らないがんが進行している。もう終わりだと考える。心気はこころと気分のことですから、病気を意味するとは思えませんね。でも、昔からこうなっています。内容としては疾病妄想とか重病妄想ということです。このほうが脳に負担をかけない。
横道にそれると、心気症とは、医学的な診察や検査では明らかな器質的身体疾患がないにもかかわらず、ちょっとした身体的不調に対して自分が重篤な病気にかかっているのではないかと恐れたり、既に重篤な病気にかかってしまっているという強い思い込みにとらわれる精神疾患です。意味は心気妄想と同じです。心気症という言葉は、Hypochondrium、Hypochondrieの翻訳です。心気症といわずヒポコンデリーと言うこともあります。どちらにしても分かりにくいことに変わりはありません。肋骨の下ということで、これを季肋部と言いますが、これもまた難しい。とにかく、昔は肋骨の下にこころがあると考えられた。それが病んでいるという言葉です。連想でいえば、シゾフレニーという言葉はスキゾ=分裂、フレニー=横隔膜=こころという語源になっています。横隔膜とか肋骨の下あたりにこころがあるとギリシャの人たちは考えたらしい。心理的に変調があると心臓で動機を感じたり、胃が痛くなったりしますから、こころはそのあたりにあると考えるのも理解できます。実際、肋骨の下あたりや横隔膜のあたりは解剖してもこころのようなものは何もないから、今は脳に心があると考えるわけです。しかし、そうなのでしょうか。
脳を解剖しても、豆腐のような感じのものがあるだけで、これが心かと納得できるものではありません。心がどこかの場所に存在すると考えるのは少しおかしくないですか。心は心理機能のことと考えると、心がどこかの場所に存在するわけではない。国会と国会議事堂は違います。国会は機能であり、国会議事堂は物理的物体・構造物です。国会は国会議事堂にあるのだろうか。胃と消化の関係も同じですね。構造と機能です。心は脳にあるという考えのもとは、脳が病気になれば精神機能に異常が生じることでしょう。でもたとえば、送電線が切れて停電になったからと言って、送電線が発電の場所だと考える人はいません。あるいは変電所に例えればいいかもしれません。脳は変電所みたいなものかもしれません。
そんなわけで、脳の機能が心であると言った方が近い。しかし心は脳にあると日常語でいうこともある。これは、霊魂とかのように何かの実体として、心や精神を考える習慣の名残なのでしょう。解剖学的構造としては脳であり、脳の機能は精神機能であり、心理機能ともいうと表現すればよいと思います。これは一元論の一種ですが、正しいと結論が出ているものではありません。
こころという言葉は、機能を指すようでもあり、物理的実体を指すようでもあり、魂や霊魂のような非物理的実体を指すようでもあります。こころの病気と言ったりもするのですから、いろいろな先入観があるのも仕方ないです。日常語で脳の病気というのは、脳腫瘍などのことですね。脳腫瘍は心の病気ではない。うつ病は心の病気であるという。そうした昔からの言語習慣に注意しましょう。
心身問題Mind–body problemといいますが、デカルトの心身二元論以来の流れがあります。科学を勉強しないで自然言語システムに包まれている人は自然に二元論的な考えになるのでしょう。無反省な態度ですがそれはそれで害もないし、いいのではないでしょうか。科学を邪魔しなければそれでいい。無神論とか唯物論とか進化論とかを排除するのはやめてほしい。人間の自由意志は、機械である身体からは発生しない、だから二元論が正しいというのがデカルト以来の素朴な直観です。そう考えるならそれでいいでしょう、放置しましょう。論じても実りもありません。心身問題は心脳問題と書かれることもある。また自意識の発生を問題として、二元論と一元論のそれぞれの変種が提案されている。
ジョン・C・エックルスなどは優れた神経細胞研究者でシナプスには促進系と抑制系があることを発見した人ですが、晩年になって、キリスト教的になり、カール・ポバーとともに世界三元論などを主張し、もうすぐお迎えが来るから、教会に悪く思われたくないんだろうとか言われていました。天国に行きたかった。エックルス先生の弟子が東大の伊藤先生で、その弟子、孫弟子などが神経生理学の研究をしています。伊藤先生は小脳の研究をしました。人間は最初に自転車に乗る時は脳全体を使って集中しているのですが、コツがわかると、そのコツを小脳にコピーして、小脳で実行するようになる。だから、小脳を働かせて自動機械のように自転車に乗って、前頭葉では別のことを考えたりできるようになる。いまも自転車に乗って傘をさして電話をかけていたりしますね。危ないけど、それができるのは小脳のおかげです。
ここで元の文脈に戻ると、3つめ、現実に反して自分は重大な罪を犯してしまったと思い込むのが罪責妄想です。キリスト教の聖書の世界観が反映されているような気もします。
これら3つの妄想は、憂うつ気分や喜びの喪失の重症型として、憂うつな気分から自然に発展したものでしょうか。本当に3つだという根拠があるのでしょうか。なぜこの3つなのでしょうか。
あるドイツ人の本を引用したいのですが、ドイツ語も難しいし翻訳日本語も難しく、分からないなりに簡単に言うと、もともとお金のことを気にする人は貧困妄想、もともとくよくよ健康を気にする人は心気妄想、もともと道徳心の強い人は罪業妄想になりやすいという以上のことは分かっていない気がする。
また、3つに共通のこととして「取り返しのつかない」ことがあげられると偉い先生は言っているが、それは国語とか哲学の問題だろう。このように否定的に紹介できるのも時代とともに人間が少しは進歩しているということなんだろう。
他に紹介すると、時間の流れのうちにもはや自己を見出すことができないという悪に関して、罪の象徴系が活動すれば罪業妄想となり、ケガレの象徴系が活動すれば心気妄想、経済面の悪が具体化すれば貧困妄想になり、など要約が悪いのでまったく意味不明な話も有名だ。象徴系とかは昔流行したフランスの哲学の言葉ですね。
貧困妄想は罪業妄想と心気妄想の中間に位置しているから貧困妄想が三大妄想の中核であると書いた教授もいた。なぜ中核なのか私には今も分からないのでこれ以上説明できない。
また別の論文では、3つとも、最終的には困窮、悲惨、没落、破滅につながる、そして罪業と心気は貧困の主題に収斂するという。
3つに共通する主題として破滅妄想を考えればよいとする論文もある。自分の身体が破滅するのが心気、家族の経済が破滅するのが貧困、他者との関係の破滅が罪業だという。これは科学とは言いがたいと感じる。
しかしそのように切って捨ててはいけないので、先人は、電子顕微鏡がないのにウィルスを探していたのだと思い出す必要がある。努力は立派ではないか。
また、ハイコンテクストとローコンテクストの問題もある。かいつまんで要約だけ出されてもよくわからないのも当然で、それは学問はハイコンテクスト状況でやっと理解できるという面があるからだ。ローテクストでも理解できるのが天才である。普通の人は、実際にそばで話を聞いたり雑談をしたりしながら少しずつ周辺も含めて理解してゆく。だからいきなり要約だけ出されて、意味が分からないのも当然で、分からない人は自分は普通の人でよかったと思えばいい。実際そばで話を聞いていると、なぜ自分はこの人の話を理解する必要があるんだろうと突然気が付くと思う。そんな理由は1ミリもない。
とはいうものの名残惜しいのでもう一つ紹介する。そもそも人間の存在の仕方が、かけがえのない権威形象との連携を維持し所有することのうちに自己評価の基盤を見出すところにある。したがって、人間関係も財産も生命もすべて所有するという関係に傾いている。よって人間の最も恐れることはそれらの喪失であり、究極は破局である。
たとえを使ってほぐして言えば以下のようである。うちの家系は高貴ななになに家と近い関係で、そのおかげで高貴な人々と親しくお付き合いしているし、財産もあるし、代々長生きしていると考えている。自己評価の基盤がなになに家という権威との関係を維持して所有している、そして見せびらかす、というところにあるので、財産を失う、健康を害する、高貴な人々とお付き合いできないような罪を犯し罰せられる、社会的体面を失う、メンツが傷つくという事態に直面すると一気にすべてを失い、破滅に至ると考えて恐怖する。所有と考えているから失う危険を恐怖する。
たとえば、体験したとか体得したとかを貴重なものだと考えれば、それを失うということはないので、安心していられる。必要な時に思い出せばそれでよい人生になる。
よくわからないが自分なりに解きほぐせばこんな感じだ。
いろいろ書いて、風呂に入ったりして、何か思いつくかなと思ったけれども、何も思い浮かばないので、うつ病の三大妄想はこれで終わる。軽度の反応性うつとうつ病の三大妄想がつながっているかといえば、そんな気はしない。三大妄想という考えは、そう考えるならそれでいいし、忘れるならそれでいいという程度のものだと思う。3つに特別な意味はない。3つの間の関係も考えてもいいけれども、考えなくてもあまり損はしない。三大妄想の一つが症状として見られたらうつ病を疑う。でも、ないからといってうつ病を見落としたりしない。
座標変換の話でいうと、座標の様子はこのような目印で決められるものではない。
人間の重大関心事は概略で言うと、金、色、面子、健康であり、統合失調症の人が初発のエピソードではこれらの領域に関することが多く、再燃するときにはまた同じ領域でのストレスが見られると言われている。この知識は統合失調症再発防止に役立つ。
金と健康は貧困妄想と心気妄想に対応する。面子は罪責妄想につながるのだろう。色はたとえば嫉妬妄想につながる。嫉妬妄想は、パートナーが浮気をしているというという妄想で、内容としては不実妄想とか浮気妄想のことである。認知症で見られ、さらにアルコール症でも見られたりする。
こうしてみれば、人間が気にしているのはだいたいそのあたりのことらしい。うつだからというわけではなく、調子が悪いときや悲観的な時には金、色、面子、健康くらいの分野がまず気になるといことであり、妄想形成するとすれば、それらを主題とするものになるだろうと推定するのは考えやすい。
統合失調症とちがい、うつ病の人らしく、超越的なことで悩んだりはしない。自分は国連事務総長だが、身分を偽ってここにいる。世界平和のために心を尽くしているが、最近はなかなかうまくいかない。どの国も自分勝手だとか、こんな悩み方ではない。神と直接対話して、使命を言われたとか、そのような超越的なものではない。あくまで現世的で集団内で生きる自分が集団内での立場とか地位を守れなくなることを心配している。キリスト教で言えば、神との直接の交流に関心があるのではなく、現世の自分の属する教会のなかでの自分の立場を心配するとか、そんな具合だろう。最終的に現世的で社会的な破滅が怖いのだろう。罪責妄想は刑法の問題ではなくて、他人に迷惑をかけた、その罪を取り消す努力はもうできない、取り返しがつかない、社会の中で自分の居場所がもうない、という感覚がつらいのだろう。刑務所に入れば食事の心配はないとか、そんな風には考えない。世間に顔向けができないと感じるのだろう。
そんな意味で、貧困は世間で肩身が狭い、病気は世間から置いていかれる、世間の対等の関係の枠外に置かれる、そう考える。まとめると、現世の社会秩序の中で今までの自分の位置を保持できないことが中心となる。貧困がつらいのは、集団内で今までのような体面を保てないからだ。病気がつらいのも、集団内でいたわられ慰められ保護される立場になってしまうからだ。罪がつらいのはもう世間の中で面子が保てないからだ。集団内での立場が基軸にあることはうつ病タイプの人の基本なのだろう。神と聖書と自分の関係でキリスト教を考える人と、キリスト教とは教会の仲間そのものだとする感覚の人とはやはりタイプが違う。神と聖書と自分の問題だと考える人は統合失調症タイプである。教会の仲間が宗教なのだと考えるのはうつ病や躁うつ病のタイプである。このことと三大妄想の発生がつながっている。
精神疾患の軽症化が言われていて、統合失調症も躁うつ病も軽症化していると思う。一方で、発達障害のADHDとか自閉性スペクトラム障害とかは増えているように思う。
うつ病の軽症化については、うつ病が少なくなって、その分、反応性うつ状態が増えているという話ではなくて、全体に増えているが、うつ病の軽症型と反応性うつ状態・疲弊性うつ状態が増えて、重症型うつ病は減ってきているとの印象である。軽症うつ病をきちんと診断するとなると、症状が軽いから反応性うつ状態、重いからうつ病ともいえないわけです。この辺りが説明しにくいところです。(つづく)