山崎正和(やまざき・まさかず)訃報。86歳。劇作家、評論家
1934年、京都生まれ。大阪大教授、東亜大学長などを歴任。『世阿弥』で岸田戯曲賞。読売文学賞。評論に『社交する人間』など。
「柔らかい個人主義の誕生」(1984年)
「モーレツからビューティフルへ」というCMが注目を集めた1970年代を俯瞰(ふかん)しつつ、社会と個人の変化を描いた。知識集約型産業が中心となる脱産業化社会では、企業は未来の需要を発見する飛躍的創造が必要になると指摘。消費者はコース料理を楽しむように満足を引き延ばそうとする欲望を持ち、ものではなく時間を消費し、他人に自らを表現する社交を楽しむようになると予言。消費文化論ブームを引き起こし、吉野作造賞を受賞した。
ーーーーー
1970年代から80年代にかけて、産業構造が変わり、人間の生き方や考え方も変わっていく。この本でそう主張しましたが、大筋は書いた通りになり、威張るつもりはないけれど、うれしく思っています。
本の端緒になったのは、時代の変化でした。洋服の有名ブランドや美容院が人気を集めるようになった。カラオケも流行しはじめた。自分を見せる、聞かせるという「自己表現」の欲望に人々が目覚めていったんですね。
私はこれを「表現する自我」という概念で説明しました。それは、近代に西欧から流入してきた「自我」とは逆です。「自我」は欲望の主体であって、他人の持ち分を奪い、他人を手段として使って、自分を大きくしようとする。資本家が労働者を使って資本を増やすように。
「表現する自我」は尊敬できる他人を必要とします。化粧し、着飾った女性は、自らの姿を同性の美女か気に入った異性に見せたいと思うもの。猫に見せても意味がない。猫には評価する能力がないから。
それから、もう一つ、私が考えたのが「時間消費」という概念です。当時、外食産業やホテル、旅行業者が人気を集めていました。旅行は風光明媚(めいび)な景勝の地に長く滞在し、外食はごちそうを味わって時間をかけて食べることを楽しむ。
今の若い人は自動車を買わないといいます。代わりに何をやっているか。たとえば「ポケモンGO」。時間を消費しているんですね。
時間をかける楽しみ ITが広げる
かつて「消費」といわれていた多くの部分は、実は「生産」なんじゃないかと私は考えました。例えば、握り飯を食べるのは、ごはんをエネルギーに換え、再び働けるようにする。労働力の再生産なんです。
マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で書いたようにプロテスタントたちは神のために時間を無駄にせず懸命に富を増やした。社交なんてとんでもない。クリスマスまで否定したんですね。
だが、それから時が過ぎ、私の友人でもあるダニエル・ベルがいうように「脱産業化社会」になった。そうした経済や社会の変化とともに人間の自我も変化する、と私は考えました。
時間消費を楽しみ、自己表現する自我の登場です。それは、かつての産業社会の硬い個人主義とは区別される「柔らかい個人主義」なんですね。他人に自らを表現し、時間を消費して社交を楽しむんですね。17世紀のサロンで男がダンディズム、女性がコケットリー(なまめかしさ)で魅力をみせたように。
この本の中で一つだけ私が間違えたのは、活字文化の記述です。私は、本や雑誌の発行点数が増える傾向を良いことと書いたが、新聞や総合雑誌が打撃を受けた。スマホなど電子情報機器の異常な発達もあって、活字文化は衰退し、人間の関心は非常に狭くバラバラになった。
情報機器の大きな特徴はみんなが表現をすることですね。その点はこの本で主張したことがさらに進んだ、ともいえます。
21世紀全体を見ても、この本で書いた方向に進んでいくと思います。「IoT」であらゆる機械にインターネットが装着されると生産はますます効率が良くなり、人間を必要としなくなる。機械の管理や経営する人材は必要でしょうが、圧倒的な数の労働者は仕事を失う。人々は自己表現する世界に生きればいいのだから幸せに生きられますが、お金はどうやって得るのか、という問題は出てきます。
資本主義による富の分散は終焉(しゅうえん)し、21世紀後半か末には新しい社会主義を考えざるを得なくなる。私はそう考えています。もちろん社会主義は難しい。本当に難しいです。なぜならば、社会主義は必ず官僚化する。ソ連がつぶれたのも官僚化。中国でも党の官僚が富を独占して汚職をやっている。
しかし、無人工場から上がってくる収入を人々に分ける方法は必要になる。自我を拡張しようとする自我は機械を家来にして、いくらでも拡張する。でも、その自我が持つ富をどうやって一般人に分けるのか。それが最後の21世紀全体の問題になるんだろうと思っています。(聞き手・赤田康和)=朝日新聞2016年9月28日掲載
ーーー
多分、一般人に分ける気持ちはないだろうと思う。
ちょうど、石油の儲けを一般人に分けているような構図であるが、だいぶ違ったものになるのではないだろうか。
ーーーー
劇作家の山崎正和さんが文化勲章を受章した記念のフォーラムが6月8日、大阪大学で開かれた。山崎さんの「背中を追ってきた」という哲学者で阪大元総長の鷲田清一さんが登壇。事象そのものに迫る現象学者フッサールやメルロポンティの議論を参照しながら、山崎さんの著作に通底する思考を読み解いた。
まず挙げたのがアンビバレンツ。相反する感情の共存を意味し、愛しているが憎い愛憎が典型だ。物事の裏側には必ず対極のものが貼り付き、自ら反転していく。そんな見方が劇作から文明論まで幅広い仕事に一貫するとみる。
アンビバレンツを支える概念がリズムと受動性だ。リズムは山崎さんの『リズムの哲学ノート』に結実した長年のテーマ。精密に刻むほど人を酔わせる逆説をはらむ。同書は原生動物から人間の行動、宇宙の運動まで丁寧に論じ、自然科学にも耳を傾けて原理論に走らない。そこに本当の意味での受動性があり、現象学的な思考法だという。
フッサールは物事を分析するナイフを対象の性質に合わせよと説いたが、彼自身はナイフの研磨に熱中し、世界に十分切り込まなかったと鷲田さんは考える。だが、山崎さんについては「日本では珍しい現象学的な実践をやってこられた」。鷲田さんの結論である。(編集委員・村山正司)=朝日新聞2019年7月10日掲載
ーーー
いやはや