人生の価値

私は教育大学付属の小学、中学、高校で教育を受け、大学に進学した。考えられる最高の教育を受けてきた。
そう語る人がいたとする。子供時代の教育環境などは自分で選択できるものではない。その人が語る最高という環境についても当方は知らないのだから判断できない。しかしその人は、それ以外の教育環境は必ず劣っていると断定している。なぜ最高ということができるのか謎ではないか。
最高の教育を受けてきた人間が断定するのだからそれなりの理由があるのだろうと意地悪を言ってみたくもなる。

一方では、劣悪な教育環境で、兵隊のように行進練習ばかりさせられていた子供もいる。そんな子供と、教育大学付属で教育を受けてきた子供は、人間としての内容が違うのだろうか。
くだらない教師に時間を浪費させられた田舎の貧しい子供。そうかもしれないが、本当にそうなのだろうか。

例えば戦前の軍国主義教育で歴代天皇の名前を順に言える忠君愛国少年だったとして、それが価値ある教育なのだろうか。教育勅語を暗唱できたとしてどうなのか。天皇を思い、目に涙をためて心を熱く燃えたぎらせ鬼畜米英、暴支膺懲を唱える。満蒙開拓義勇軍に参加する。
戦後の子供教育文庫のようなものをたくさん読んでいる子供は幸せなのだろうか。ばかばかしい絵空事を、毎度ほぼ同じような展開でたくさん読ませられるのは、頭が悪い証拠だ。なぜ早く卒業しなかったのか。
ろくに教育も受けず、「高級な」文化も知らず、ただ漠然と「知的刺激」も「芸術的感動」もない幼年期を過ごしたとしたら、その子は駄目なのだろうか。ピアノも弾けない、ルノアールも知らない、文学も知らない、貴族の作法も知らない、服装も知らない、言葉遣いも知らない。文化の高級な人たちはクラシック・コンサートを開いて、銀座のキャバレーの女性が着るようなペラペラの独特なドレスを着て登場する。「芸術的美意識」とは何か。音楽もあの衣装のフレーバーなのか。
自然に親しんでザリガニを手で捕まえられますなどと言うのも、同じようにばからしいことだ。そんなことはできなくても別に構わない。
自然万歳とか、競争しないとか、そんなことを言うのは、高級な教育を語るのとネガとポジである。
教育大学付属の勉強の存在を18年間にわたって知らなかった子供は、頭の中は空白だとでも言うのか。それでも、18年間を生きてきたのだ。それでいいではないか。

平安貴族が鎌倉武士を卑下したのと同じ。平安貴族がフロイト的な防衛機制を使っただけである。

教育のことに限らず、例えば、40歳の人は、どの人も、40年分の人生を生きてきたわけで、その人生の内容に優劣をつけることなどできるだろうか。
できるはずがないと思う。価値などというものはその時代のその地域の偏見でしかない。漁師なら魚をたくさん取ってきた人が偉いのかもしれないが、海が怖い人も、それなりに人生を経験しているのだ。

私の考えでは、人生の経験は魂に蓄えられる。どんな活動をしていても、どんな教育を受けていても、たいして違いはない。人間の奥にある魂がこの人生を深い意味で経験しているのだ。毎日退屈な暮らしでも、家の手伝いをしているだけの暮らしでも、農作業を手伝うだけの暮らしでも、それぞれに人生を体験しているのである。閉じこもりでも人生の経験は積み重なる。

子供を育てたことがない女性とは話が通じないなどと語る人もいる。一体どんな話が通じているのか、興味深い。
体験を誇ることは限りがない。
不良は不良で昔を誇る。貧乏は貧乏で昔を誇る。ネガもポジになる。
一体そんなことに何の意味があるのか。

たとえばホームビデオに何が映っているかと考えて、空ばかり映っているものと、バチカン大聖堂が映っているもので価値がどうとか言うのもおかしい。どうせただのビデオで、つまりは電気信号である。
魂はどんな信号であれ40年分の信号をきわめて真面目に受け取るのである。空ばかり映っているとして、それでいい。真正の40年分の電気信号である。何が映っていても、40年分で同等である。
ひとりで静かに味わえばいい。